血のエーテル化


ルドルフ・シュタイナー


1911年11月1日 バーゼル

人間存在として私たちが、神秘主義であれ、リアリズムであれ、いかなる方法であれ、知識を求めて来たところではいつも、自己認識の獲得が要求されてきました。しかるに、他の機会に繰り返し強調してきたことですが、この人間の魂を知るということは多くの人−時にはその中には人智学徒も含まれます−が信じているほど決して容易ではありません。人智学徒はその努力において出会う障害をたえず意識すべきです。しかしながら、世界実存において価値ある目標に到達したいなら、私たちの行動が人間性の一員として自分にふさわしいものでありたいなら、自己認識の獲得は絶対不可欠です。

なぜ私たちにとって自己認識がそれほど困難なのかを自問してみましょう。まさしく人間は複雑な存在です。もし人の内的生、人の魂の生について語りたいなら、私たちはそれを単純で幼稚なものと見なすことから始めるべきではありません。むしろ、私たちは、この素晴らしい構造、人として出現し得る世界の神的霊的力たちのこの組織により深く浸透する辛抱強さと忍耐と意志をもつべきです。

この自己認識の性質を検証する前に、人間の魂の生の2つの様相が私たちに姿を現すかもしれません。磁石が北と南の極をもつように、光と闇が光の原理の極として世界に存在しているように、人の魂の生にも2つの極があります。生の2つの対立する状況におかれた人を観察するとき、この両極が出現できます。通りに立って何か非常に美しく印象的な自然現象の観想にすっかり没入した誰かを私たちはじっと観察しているとしましょう。私たちは、彼がどれほど身じろぎもせず、手も足も動かさず、目前に広がる壮観から決して目を離そうとしない姿を見るでしょう。そして私たちは、彼が自分の見ているものの内的映像を作る作業に従事しているのだと気づきます。彼は自らを取り囲むものの観想に一心不乱になっていると私たちは言います。これが1つの状況です。また別の状況があります。ある人が道を歩いていて、誰かが自分を侮辱した、傷つけたと感じます。よく考えずに、彼は怒りに身を任せ、彼を侮辱した人を殴ることで怒りを表出します。私たちはそこで、怒りから発生した諸力の開示を、意志の衝動の開示を、目撃しています。もし行動の前に考えていたなら、殴る必要はなかったのだと私たちは容易に想像できます。私たちは今2つの極端に異なる行為を思い描きました。前者には心像の形成だけがありました。意識的意志が全くない過程です。後者には思考が、心像の形成が、ありません。意志の衝動に直接的表出が与えられています。この2つの事が私たちに人間の魂の2つの極端な極性を提示します。一方の極は観想、心像形成、思念への自己放棄です。そこで意志は役割をもっていません。もう1つの極は思念なしの意志の衝迫力です。私たちは外的生の外的観察だけでこういった事実に到達しました。

私たちはこれらの事柄にもっと深く入り込むことができます。そのとき私たちは、秘教的研究の発見を助けに召喚することによってのみ自分のふるまいを見いだしうるあれらの領域に入り込みます。ここでまた別の対極が私たちに対峙します。眠りと目覚めの対極です。眠りと目覚めの間の関係の秘教的意義を私たちは知っています。人智学の基本的概念から私たちは、目覚めた生において人の存在の4つの構成要素−物質体、エーテル体、アストラル体と私−は有機的に活動的に相互に織り成しているが、眠りにおいて物質体とエーテル体はベッドにとどまっているが、アストラル体と私は出ていって、私たちの物理的存在に境界を接する大世界総体に注ぎ込まれるのだと知っています。私たちは別の観点からこれらの事実に接近することもできるでしょう。私たちは、世界の観想について、心像形成について、思考について、そして意志とその衝動について、一方では目覚めた生において、また一方では眠りにおいて、何が言えるか、問うことができるでしょう。

この問いにより深く浸透するなら、現在の肉体存在における人は、ある意味で、本質的にいつも眠っているということが明らかになると分かります。しかしながら、夜の間の眠り方と昼の間の眠り方はちがいます。全く外的やり方でそれを確信することができます。なぜなら昼に秘教的意味で目覚めることができるということを皆さんは知っているからです。言い換えると、霊能力者となって、霊界を見入ることができるのです。通常の肉体はこの観察に対して眠っています。ですから人が霊的諸感覚を利用できるようになると、それは目覚めなのだと、まさしく言うことができます。もちろん夜に、私たちは正常なやり方で眠っています。ですから、通常の眠りは外的物質世界に関連した眠りであるのだと言えます。一方、現在の昼の意識は霊界に関連した眠りだということになります。

これらの事実はまた別の光で考察することができます。より深く検証してみると、肉体的生の通常の目覚めた状態において、人は、一般に自分の意志に力や制御をほとんどもっていないということに気づきます。意志は日常生活から離脱しています。人間の意志と呼ばれるものを注意深く観察してください。そうすれば、意志の衝動に関して人が日常生活においてどれほど制御力がないかが分かるでしょう。朝から夜にかけて皆さんがすることで実際に自分自身の思考、心像形成、自分の人格的、個人的決定の結果であるものがどれほど少ないかを考察するだけで十分です。誰かがドアを叩いて、「どうぞ」と言うとき、それは自分自身の思考と意志の真実の決定と呼ぶことはできません。腹を空かせて食卓につくなら、それは意志によってなされた決定と呼ぶことはできません。なぜならそれは体の状態、有機体の要求によって引き起こされたからです。自分の日常生活を思い描こうとするなら、意志が人間の中心から直接影響されることがどれほど少ないかが分かるでしょう。なぜそうなのでしょうか。秘教的教えは私たちに、意志に関して人は昼に実際眠っているのだと示します。言い換えると、人は意志の衝動の内部に実際全然生きていないのです。私たちはより良い概念と心像を進化させることができます。またより高度に道徳的な、より洗練された個人になることができます。しかし私たちは意志に関して何もすることができません。もし私たちがより良い思念を育成するなら、私たちは意志に間接的にはたらきかけることはできます。しかし生に関わる意志に対して直接何もすることができません。これは、日常生活において私たちの意志は間接的にしか、すなわち、眠りを通してしか影響されないからです。眠っているとき、考えません。心像を形成しません。ところが、意志は目覚めて、外側から私たちの有機体に浸透し、それに活力を賦与します。私たちは朝に強化された感じがします。なぜなら私たちの有機体に浸透したものは、意志の性質のものだからです。私たちが意志のこの活動を知覚しないということ、私たちがそれについて何も知らないということ。それは、すべての概念活動は私たちが眠ると眠るのだということを考慮するなら、理解可能になります。ですから、まず最初に、私たちはさらなる観想、さらなる瞑想のためにこの示唆を捧げましょう。自己認識を遂げれば遂げるほど、人は目覚めているとき意志において眠り、眠っているとき概念の生において眠ると言う言葉の真実の確証をますます見いだすことでしょう。意志の生は昼に眠ります。思念の生は夜に眠ります。

意志が夜に眠らないということに人が気づかないなら、それは人が思念の生において目覚める方法しか理解していないからです。意志は夜間に眠らず、そのとき火のエレメントにおいて働きます。昼に使い果たされたものを回復するために体に働きかけます。

このように人間存在には2つの極があります。観察と心像形成の生と、意志の諸衝動です。人間存在はこの2極に正反対の関わり方をしています。しかしこれらは2極にすぎません。魂の生の総体はこの2極間のさまざまなニュアンスにあります。魂のミクロコスモス的生を私たちが高次の世界として知っているものと関連づけることによって、私たちはこの魂の生の理解により接近することができるでしょう。

これまで述べられたことから、私たちは心像形成の生が人の魂の生の極の1つであると分かりました。この心像形成の生は、外的な、唯物主義的な精神の人々には実在でないように思われるものです。私たちは次のような思念が表出されるのをよく耳にします。「ええ、心像と思念は心像と思念にすぎないのです!」これは、パンや肉の一片を手に取れば、それは実在だが、思念は思念にすぎないということを暗示するものです。思念は食べられないという意味です。だから思念は実在ではなく、思念に「すぎない」のです。しかしなぜでしょうか。基本的に言って、人が思念と呼ぶものと思念が実際そうであるものとの関係は、事物の影像と事物そのものとの関係と同じだからです。花の影像は花そのものを、実在を、指示します。思念も同じです。人間の思考は心像、高次の世界に帰属する存在たち、アストラル界と呼ばれる世界、の影像なのです。人間の頭部をこのように描くとき思考を自分に正しく表象することになります(これは絶対的に正確なものではなく、略図でスケッチしたものです)。この頭部に思念があります。それをこのダッシュで表しましょう。しかし、頭部にあるこれらの思念はアストラル界の生きた存在たちとして思い描かねばなりません。実に変化に富んだ種類の存在たちが、人間存在に影像を投げ入れるおびただしい心像と行為の形態で、そこでは働いています。これらの過程が人間の頭部に思考として反映しています。たえまない流れが皆さんの頭部からアストラル界の中に動いています。それらは皆さんの頭部の内部に思念の生を確立する影なのです。

私たちが思念の生と呼びうるものと同じように、人間の魂の内部にはまた別の生があります。通常の生において思念の生と感情の生は区別されます(これは全面的に正確というわけではないのですが、通常の生から概念が得られるように、そう言っておきます)。感情は2つのカテゴリーに分かれます。快と共感の感情であり、不快と反感の感情です。前者は良い、善意の行為によって引き起こされます。反感は邪悪な、悪意の行為によって引き起こされます。ここには単なる心像形成以上の、それとは別のものがあります。私たちは他のどの要因に関係なく、事物の心像を形成します。ところが、私たちの魂は美しく良いものに関して、醜く邪悪であるものに関して、共感や反感を経験します。思念として人間存在において生じるものすべてがアストラル界を指し示すように、共感や反感と関連するものすべては私たちが低次のデヴァカンと呼ぶ領域を指し示しています。心像とアストラル世界の間に線を引くことができたように、感情に関係して私はデヴァカンを、天界を指し示すことができます。天界、すなわちデヴァカンにおける諸過程は、主に私たちの胸部において、美しいものや醜いもの、善なるものや悪なるもの、に対する共感や反感として投影されます。道徳的美的世界の経験と呼び得るものにおいて、私たちは魂の内部に天界すなわちデヴァカンの陰影を担っています。

人間の魂の生には、善なる行為に対する単なる好みとは峻別しなければならない第3の領界があります。横に立って親切な行為を目撃するのに愉悦を覚えることと、意志を行為に移し、何かそういう行為を自分で実際に果たすこと、この2つの間には相違があります。私は、善良で美しい行為を喜ぶこと、邪悪な醜い行為に不快を覚えることを、審美的要素と呼び、人を善行へと衝迫する道徳的要素と区別しましょう。道徳的要素は純粋に審美的な要素より高いレベルにあります。単なる快、不快は何か善か悪の行為をなす意志より低いレベルにあります。私たちの魂が道徳的衝動を表出するように迫られる感じがする限りにおいて、これらの衝動は高次のデヴァカン、高次の天界の影像です。

私たちは人間の魂の活動のこの3つの別個の段階−純粋に知的な段階(思念、心像、観察)、審美的段階(快不快)と道徳的段階(善悪の行為をなす衝動に姿を現します)−を、マクロコスモス、大世界に、重なる3つの領域が人間経験内部に投げかけるミクロコスモス的映像として思い描くことができます。アストラル世界は思念の世界に、知的世界に影を落としています。デヴァカン界は快不快の審美的領域に影を落としています。高次のデヴァカン界は道徳として影を落としています。

思念   :アストラル界の存在たちの影像    (目覚め)

共感と反感:低次のデヴァカン界の存在たちの影像 (夢)

道徳的衝動:高次のデヴァカン界の存在たちの影像 (眠り)

このことを人間の魂の2極に関して先に述べられたことと関連づけるなら、私たちは知性の極を目覚めた生、人が知的に目覚めている生を支配するものとして経験しなければなりません。昼の間人は知性に関して目覚めています。眠っている間人は意志に関して目覚めています。夜に知性に関して眠っているので、人は自分の意志でやっていることを意識しなくなります。私たちが道徳的原理と衝動と呼ぶものは意志に間接的に働き込みます。実際、人は思念の生を通じて吸収する道徳的衝動が効果的活動に入ることができるように眠りの生を必要としています。今日通常の生において、人は知性の領域においてのみ正しいことが実行できます。道徳的領域においてはそれほど何かを実行できないのです。というのもそこではマクロコスモスから来る助けに依存しているからです。

既に私たちの内部にあるものは知性のさらなる発達を引き起こすことができますが、もしさらに大きな道徳的強さを獲得したいなら神々が私たちの助けに来なければなりません。神的意志に飛び込むことができるように、私たちは眠りに落ちます。そこでは知性が干渉しません。そこでは神的諸力が私たちが受け取る道徳的原理を意志の力に変容させます。そこで神的諸力は私たちの意志に、もしそうでなければ私たちが思念においてしか受け取ることができないであろうものを注ぎ込みます。

この2極の中間に、夜目覚めている意志の極と、昼に目覚めている知性の極の間には、人に連綿と存在している審美的鑑賞の領域があります。日中人は十分に目覚めてはいません。最も散文的で衒学的個人だけが目覚めた生においていつも十分に目覚めているのです。人間存在は基本的に日中に実際夢を見なければなりません。目覚めているときにいつも少し夢を見ることができなければなりません。芸術や詩歌など粗雑な現実に全面的に関わっていない何らかの活動に自らを委ねることができなければなりません。このように自らを委ねることができる人々は、実存の総体を賦活活性化できる絆を形成します。そういう思念に自らを委ねることは、夢が目覚めた生に浸透することにある程度似ています。夢が眠りの生に入り込むことは皆さんよく知っています。これは本物の夢です。眠りにおける別の意識に浸透する夢です。それは、荒涼とした空虚で不健全な目覚めた生を送りたくないなら、人間存在が日中に必要としているものでもあるのです。夢はとにかく夜の眠りにやって来ます。これに証明は不要です。夜の夢見と昼の夢見の2極の中間に、ファンタジーに生きることができる状態があります。

ですからここにも3重の魂の生があります。私たちが本当に目覚めている知性要素は、日中に私たちが思念に自らを委ねるとき、アストラル界の影像を私たちにつれて来ます。そこでは日常生活や偉大な発明の最も実り豊かな理念が発生しています。そして睡眠時に、夢見るとき、その夢は私たちの眠りの生に作用し、低次のデヴァカンに由来する映像が私たちに影を落とします。私たちが睡眠時にはたらき、道徳性を私たちの意志に刻み込むとき−私たちはそれを直接知覚することはできませんが、間違いなくその結果を知覚することができます。また、夜間の私たちの思考に神的霊的力たちの影響を浸透させるとき、私たちが知覚する衝動は高次のデヴァカン、高次の天界から来た影なのです。これらは私たちの内部で生きている道徳的衝動的感情です。それらのために私たちは、思念を善と美に奉仕させるときにのみ、神的霊的生命のまさしく心臓の血を私たちの知的活動に流れさせて、それに道徳的衝動を浸透させるときにのみ、人間の生は根本的に正当化されるのだと言います。

私たちがここで、まず外的顕教的観察から、次いでもっと神秘的な性格の観察から、人間の魂の生として提示するものは、より深い秘教的研究によって啓示されます。外的側面で描かれて来た諸過程は霊視によって人においても知覚できます。人が今日目覚めた状態で私たちの前に立ち、その人を霊視の眼で観察するとき、ある種の光線が心臓から頭部へ連綿と流れているのが見られます。これを図式的に描きたいなら、私たちは心臓の領域をここに描き、そこから脳へ向かう連綿たる流れを示さねばなりません。それは頭部で解剖学で松果腺として知られる器官のまわりを流れています。

これらの光線は心臓から頭部へ流れて、松果腺のまわりを流れます。これらの流れは、物理的実質である人間の血液がたえまなく溶解してエーテル実質になっているので、生じます。心臓の領域において、血液のこの繊細なエーテル実質へのたえまない変容があります。そしてこのエーテル実質は頭部へ上昇して、松果腺のまわりを輝きながら流れます。この過程、血のエーテル化は、目覚めた生の間ずっと人間存在に見ることができます。ところが、眠った人間存在の場合はそうではありません。人間存在が眠るとき、オカルト観察者は外部から脳へ、また逆方向に、脳から心臓へと、たえまなく流れ込む様子を見ることができます。ところが、眠っている人において外側から、宇宙空間から、マクロコスモスからやって来て、ベッドに横たわっている物質体とエーテル体の内的組成に流れ込むこれらの流れは、探査されると、驚異的なものを啓示します。これらの光線は個人毎に大きく変化します。眠っている人間存在は一人一人大きく異なります。少しおごった心の人々が公の集会で寝入るとき秘教的観察にどんなにひどく自分自身を暴露するかを知りさえしたら、そうならないように必死になるでしょうに!

道徳的資質が、睡眠時に人間存在に流れ込む流れの個別の彩りに明瞭に啓示されます。道徳原理の低い人における流れは、高次の道徳原理の人に観察できるものとは全く異なっています。日中に本性を欺こうとする努力もむだです。高次の宇宙的力たちの前では、どんな欺瞞も不可能です。道徳原理にわずかな傾向しかもっていない人の場合に、彼に流れ込む光線は茶色がかった赤い色です。茶色っぽい赤に傾くさまざまな陰影を呈します。高い道徳理想の人においてその光線はライラックヴァイオレットです。目覚めや寝入りの瞬間に、上から流れ降りるものと下から流れ上がるものの間に、松果腺の領域で、一種の闘争が生じます。人が目覚めているとき、知的要素は光の流れの形態で下から上へと流れ、道徳的審美的性質のものは上から下へと流れます。目覚めの瞬間や寝入る瞬間に、この2つの流れが出会い、低い道徳性の人において2つの潮流の間で猛烈な闘争が松果腺の領域で起こります。高い道徳とあふれる知性の人において、輝く光の平安な拡張が松果腺の領域に現れます。この腺は目覚めと寝入りの間の瞬間に光の小さな海にほぼ囲まれています。そいう瞬間に穏やかな輝きが松果腺を取り囲むとき、道徳的高貴さが啓示されます。このようにして人の道徳的性格は彼に反映されていて、この穏やかな光輝はしばしば心臓の領域まで拡がっています。ですから2つの流れが人において知覚できます。マクロコスモスから来る流れとミクロコスモスから来る流れです。

この2つの潮流が人においてどのように出会うかの全き意義を理解するために、私たちはまず魂の生について外的に前述されたことを考察しなければなりません。また、この生が、知的要素と審美的要素と道徳的要素の3重性をどのように啓示するかを、考察しなければなりません。審美的要素と道徳的要素は上から下へ、脳から心臓へ流れ降ります。私たちはマクロコスモスにおける照応現象に注視を向けることについて述べられたことの全き意義をも把握しなければなりません。この照応現象は、純粋な薔薇十字者の個人たちによってなされた近年の最も綿密で注意深い秘教的研究の結果として、今日述べることができます。これらの探査は、ミクロコスモスに関連して述べられたことに照応することがマクロコスモスでも生じるのだということを示しています。時とともに皆さんはそれを十分に理解することでしょう。

人間の心臓の領域で血液がたえまなくエーテル実質に変容しつつあるように、類似の過程がマクロコスモスで生起します。ゴルゴタの秘跡に目を向けるとき、イエス・キリストの傷から血が流れた瞬間に目を向けるとき、私たちはこれを理解します。この血は単なる化学実質と見なしてはなりません。そうではなく、ナザレのイエスの性質として述べられて来たものすべての故に、全く唯一無二のものと認識されねばなりません。それが彼の傷から地球に流れ込んだとき、ある実質が私たちの地球に伝えられました。その結合は、地球の未来の時代すべてにとって可能な限り最大の意義をもつ事件でした。それは一度だけ生じえたのでした。その後の時代にこの血に何が起こったのでしょうか。人の心臓において異なる方法で生じることと何ら変わりません。地球進化の経過で、この血は「エーテル化」の過程を経ました。私たちの血がエーテルとして心臓から流れ上がるように、ゴルゴタの秘跡以来、キリスト・イエスのエーテル化した血は地球のエーテルに生きてきました。地球のエーテル体はゴルゴタで流れた血が成ったものによって浸透されています。これは大切なことです。キリスト・イエスを通してこのようにして生じたことがもし生じなかったなら、地上の人の状況は前述したものでしかありえなかったことでしょう。ところが、ゴルゴタの秘跡以来、キリストのエーテルの血の活動が、下から上へ、心臓から頭部へ、流れる流れと合流するたえまない可能性が存在しているのです。

ナザレのイエスのエーテル化した血が地球のエーテル体に存在しているので、それは心臓から脳へ流れ上がるエーテル化した人間の血に寄り添います。その結果、前述したこれらの流れが人において出会うだけでなく、人間の血流はキリスト・イエスの血流と結合します。しかしながら、人がキリスト衝動に含まれるものの真の理解を展開できたときにのみ、この2潮流の結合が生じ得ます。そうでなければ、結合はありえません。2潮流は互いに相手を排除します。押しのけます。地球進化の時代毎に、私たちはその時代に適った形態で理解を獲得しなければなりません。キリスト・イエスが地上に生きた時に、それに先行する出来事は、彼の先駆者、ヨハネを訪れて、福音書に述べられた儀式にしたがって洗礼を授けられた人々によって、正しく理解することができました。彼らは、自分の罪が、換言すると、過去世のカルマが、終わりに至ったカルマが、変えられるように、地球進化における最も強力な衝動がまさに肉体に降りようとしているのを悟るために、洗礼を経験しました。しかし、人間性の進化は進歩します。現代においては霊科学に含まれる知識を受け取って、徐々に人智学が理解できるように心臓から脳へと流れる潮流に火を点けねばならないということを人は理解できるようになることが大切です。もしそれが生じれば、20世紀に始まりをもつ出来事を個人は包括理解できるでしょう。パレスチナの肉体的キリストに対するエーテルのキリストの出現です。

私たちは、エーテルのキリストが地球の生に入り込み、最初は少数の人々に、自然の霊視によって可視となる瞬間に到達しました。そして次の3000年の経過において、彼はますます多くの人々に見えるようになるでしょう。このことは否応無く生じるでしょう。自然の出来事なのです。それが生じるであろうことは、19世紀の電気の業績と同じくらい真実です。ある程度の数の個人がエーテルのキリストを眼にして、彼ら自身がダマスカスで起こった出来事を経験するでしょう。しかしこれは、そういう人間存在がキリストが近づいたときにその瞬間を観察できるかどうかにかかっています。今からわずか数十年で、特に若い年齢の人々に起こるでしょう。既にその準備はなされつつあります。あちこちのだれかがある種の経験をもつでしょう。人智学に自ら係わることによって本当にヴィジョンを研ぎ澄ませていさえすれば、自分を助けるために、あれこれに自分を機敏にするために、だれかが突然近づいたことに気づくでしょう。自分が見るものは肉体的人間だと彼は信じるでしょうが、実は、キリストが彼にやってきたのです。これが超感覚的存在だと悟るようになるでしょう。なぜならそれはすぐに消え去るからです。非常に多くの人間存在が、部屋に静かに座って、重い心で、打ちひしがれて、どの道を選べばよいか分からずにいるとき、この経験をもつことでしょう。ドアが開き、エーテルのキリストが現れ、彼に慰めの言葉をかけるでしょう。キリストは人々にとって生きた慰め手となるでしょう。今のところ、それがどれほど奇妙に思えたとしても、人々が、相当な数の人々もが、ともに座りどうしていいか分からずに待っている多くのときに、エーテルのキリストを見るであろうということは、それでもやはり真実なのです。キリスト自身がそこにいて、人々と相談し、言葉をそういう集まりに投げ込むでしょう。私たちは今こういう時に近づきつつあります。そして今述べられた肯定的建設的要素が人間性の進化を把握することでしょう。

現代の文化が成し遂げた大きな進歩に反対する言葉はここでは述べられません。そういう偉業は人間存在の安寧と自由に必要不可欠なのです。しかしながら、外的進歩において、自然の諸力の統御において獲得されうるものはすべて、キリストを通して魂における目覚めを経験する人に授けられる恵みと比較すると、小さく無意味なものにすぎません。キリストは今人間の文化とその関心を掌握するでしょう。それによって人間存在に目覚めるものは統合する、肯定的諸力でしょう。キリストは建設的諸力を人間文明にもたらします。

もし私たちが初期の後アトランティス時代を見入るなら、人間存在は今日用いるのと全く異なる方法によって住まいを建てたと分かるでしょう。当時人々はありとあらゆる成長するものを利用しました。宮殿を建てるときでも、植物と木の枝を編み合わせるといったようにして、自然を彼らの助けに呼び出したのでした。今日、人間存在は壊れた断片で建てねばなりません。私たちは断片化の産物で外界の全文化を作り出します。未来の年月が経過するにつれて、皆さんは私たちの文化のどれほど多くが破壊の産物であるかをますます理解することでしょう。

光は私たちの後アトランティス地球過程内部で自己破壊をなしつつあります。アトランティス時代まで地球過程は進歩的過程でしたが、それ以来崩壊の過程になりました。何が光なのでしょうか。光は崩壊します。この崩壊しつつある光が電気です。私たちが光として知っているものは、物質内部で自己破壊しつつある光です。地球進化内部で変容を遂げる化学力が磁気です。しかし第3の力が活動を始めるでしょう。もし電気が今日驚異を生み出しているように思えるなら、この第3の力はさらに奇跡的なやり方で文明に影響するでしょう。この力を私たちが用いれば用いるほど、地球はますます早く死骸になり、その霊的部分は木星体現の準備をするようになるでしょう。人が地球から自由になり、地球の体が崩れ落ちることができるように、諸力が地球を破壊するために用いねばなりません。地球が進歩的過程に関与している限り、これはなされませんでした。崩壊しつつある地球だけが電気の偉大な成就を利用できるからです。これは奇妙に聞こえるかも知れませんが、徐々に知られるようにならねばならない事実です。私たちの文化を正しく評価するために私たちは進化の過程を理解しなければなりません。私たちは、そうすることによって、地球は破壊される必要があるということを学ぶでしょう。さもなくば、霊性は自由にならないでしょう。私たちは、肯定的であるもの、すなわち、霊的諸力の私たちの地上存在への浸透をも評価できるようになるでしょう。

キリストが肉体の眼に見えるようになるために特に準備された人間の体でキリストが地上で必然的に3年間生きたという事実がどれほど大変な進歩を意味したのかを、私たちはこうして悟ります。この3年間に起きたことを通して、人間存在たちはエーテル体で彼らの間を動くキリストを眺めるべく成熟したのでした。エーテルのキリストはパレスチナの肉体のキリスト同様に本当に、また影響力をもって地球の生に入り込むでしょう。もし人間存在が曇りない諸感覚でそういう出来事を観察するなら、物質世界内部を動き回るエーテル体があるのを知ることでしょう。しかし人間存在たちは、それが人間の物質体が働くように物質世界で働くことができる唯一のエーテル体であると知ることでしょう。それは次の点でのみ肉体と異なるでしょう。すなわち、それが同時に2つの場所に、3つの場所に、いや百も千もの場所に、ありうるという点で異なるでしょう。それはエーテル形態でのみ可能です。物質形態では不可能です。このさらなる進化を通して人間性において成就されるであろうことは、既に言及した2極、知性の極と道徳性の極がますます一つになるということです。統一体に融合することでしょう。それが起こるのは、次の千年紀の行程で人間存在たちが世界でエーテルのキリストをますます観察できるようになるからです。目覚めた生においても、霊界からの善なるものの直接の働きによって人間存在はますます浸透されることでしょう。現在は意志が昼に眠り、人は思念を通して間接的にしかそれに影響できないのに対して、次の千年紀の行程で、キリストの保護の下で現代から私たちにおいて働いているものを通して、目覚めた状態における人間存在たちの行為も直接に善を生産できるようになるでしょう。

徳が教授できるようになるというソクラテスの夢は実現するでしょう。知性がこの教えによって刺激活性化されるだけでなく、この教えを通して道徳的衝動が広く伝播されることが地上でますます可能になるでしょう。ショーペンハウアーは「道徳を説くのは簡単だが、それを確立するのは極めて困難だ。」と言いました。なぜそうなのでしょうか。説教することによって道徳は伝播されることがないからです。道徳原理を認識しながらも、それを守らないでいることが可能です。たいていの人々に、パウロの言葉があてはまります。霊は望むが、肉は弱い。それは、キリストの姿から流れる道徳の火によって、変わるでしょう。それを通して、地上における道徳衝動の必要性が、人にとってますます明らかになるでしょう。人は、道徳性が地球の必要不可欠な部分であるとますます痛感する度合いにおいて、地球を変容させるでしょう。未来において、不道徳であることは、不道徳な助けを受け取る人々、その方向に煽られる人々、邪悪なデーモンに、アーリマン的、アシュラ的勢力に取り憑かれる人々、その憑依を求める人々にだけ可能となるでしょう。

これが地球の未来の状態です。ますます道徳を説き、それと同時に道徳的基盤を提供する十分な数の人がいるでしょう。しかし自分の自由決定によって悪の勢力に身を委ねて、過剰な悪が善なる人間性に唾するのを可能にする人々もいるでしょう。だれもそうするように強制はされないでしょう。それは各個人の自由意志に委ねられるでしょう。

それから、地球が、東洋のオカルティズム、東洋の神秘主義の偉大な定義にのみ描かれている状態に移行する時が来るでしょう。その時には道徳的大気が相当な強さを集めていることでしょう。何千年も前から東洋の神秘主義は、やがて来るこの瞬間について語ってきました。またゴータマ仏陀の出現以来、地球が「道徳のエーテルの大気」に浸かったあの未来の状態について特に強く語ってきました。いにしえのリシの時代から、この道徳的衝動がヴィシュヴァ・カルマンから、あるいはツァラトゥストラが告知したように、アフラ・マズダオから、地球に来るだろうということが東洋の神秘主義の大きな希望でした。このように東洋の神秘主義は、この道徳的衝動が、この道徳的大気が、私たちがキリストと呼ぶ存在から地球に来るだろうと予見していました。東洋の神秘主義の希望がおかれたのは、彼、キリストに対してでした。

東洋の神秘家はその出来事の帰結を思い描くことができましたが、それが採るであろう実際の形態においてではありません。偉大な仏陀が悟りを開いた後5000年の期間内に純粋なアーカーシャー形態が、火に浸され、太陽に照らされて、東洋の神秘主義では認識できなかった者の轍に出現するであろうと思い描くことができました。まさしく真実の素晴らしい映像です。火の子たちと光の子たちが、地球の道徳的大気を動き回るのを可能にするために何かがやって来るというのです。物質的に体現した形態でではなく、地球の道徳的大気内部の純粋にアーカーシャー的形態として、です。偉大な仏陀の悟りの五千年後に、これらの素晴らしい形態が何なのか、火と光のこれらの純粋形態は何なのか、人間存在たちに知らせるために師がいるだろうと言われました。この師−弥勒仏−は私たちの時代の三千年後に出現し、キリスト衝動について人々に教えることができるでしょう。

東洋の神秘主義はこのように西洋のキリストの知識と結合し、美しい統合体を形成します。現代から三千年後に弥勒仏として出現するであろう者は菩薩として、ゴータマ仏陀の後継者として、地上に何度も何度も受肉しているだろうということも明かされるでしょう。彼の受肉の一つが、キリスト紀元前百年に生きたイエス・ベン・パンディラです。イエス・ベン・パンディラに受肉した存在は、いつの日か弥勒仏になる同じ者です。彼は世紀毎に肉の体で、まだ仏陀そのものとしてではなく、菩薩として、何度も何度も帰って来ます。現代においても、後に弥勒仏となる彼から、キリスト存在と火の子たち−インド神秘主義のアグニシュヴァッタ−に関して最も意義深い教えが発します。

人が弥勒仏となるべき存在を認知できる媒体となるものは、すべての純粋な東洋の神秘主義にもキリスト教の叡知にも共通しています。火の子たちとは対照的に、菩薩として肉体で現れるであろう弥勒仏は、まず青年期に彼の発達は彼の内部の個我性の性質の示唆を与えないという事実によって、認知できます。理解を保持する人々だけが、そういう人間存在における菩薩の存在を認知するでしょう。30歳と33歳の間に開示するので、それ以前ではありません。そのとき人格の交替に類似したことが起こります。弥勒仏は生の33年目に人間性にそのアイデンティティを啓示するでしょう。キリスト・イエスが33歳で生涯の仕事を開始したように、キリスト衝動を告知し続ける菩薩たちは生の33歳で自己を現します。弥勒仏そのものは、変容した菩薩として、現在では適当な言葉が発見できないほど力強い言葉で話し、存在の偉大な秘密を告知するでしょう。彼はまず創造されねばならない言語で話すでしょう。なぜなら人間存在は今日弥勒仏が人間存在に話しかける言葉を見つけることができないからです。人間存在がこのようにまだ話しかけられないのはなぜかというと、それはこの発話形態に対する肉体的装置がまだ存在していないからです。開悟した者の教えは、ただ教えとして人間存在に流れ込まず、その魂に道徳的衝動を注ぎ込むことでしょう。そういう言葉は物理的喉頭によってまだ発することはできません。現代においてそれらの言葉は霊界にしか存在していません。

人智学は未来に来るべきすべてのものへの準備です。人の進化の過程を真剣にとらえる人々は、魂の発達が停止せず、その発達によって最終的には地球の霊的部分が自由になり、死骸のように粗雑な部分が崩壊するにまかせることになるように、決意します。というのも人間存在は全過程を挫折させることができるからです。進化の成功を望む人々は、私たちが今日人智学と呼ぶものを通じて霊的生の理解を獲得しなければなりません。こうして人智学の育成は義務となります。知識は私たちが実際に経験するものになります。私たちに責任のあるものになります。私たちがこの責任を内的に自覚し、この決意をもつとき、世界の神秘を経験し、人智学徒になろうという望みを生起させるとき、私たちの経験は正しいものになります。しかし、人智学は私たちの好奇心を満足させるだけのものであってはなりません。むしろそれなしでは私たちが生きられないものであるべきです。そのときにのみ、私たちは正しい意味で経験をするのです。そのときにのみ、私たちは人間の魂において実行されねばならない、そして全人間性を包括しうるあの偉大な建設における生きた建築石材として生きるのです。

人智学はこのように、未来の人々に直面し、私たち自身の魂に直面する真の世界現象の啓示なのです。それは肉体にあろうが、死と新たな誕生の間の生にあろうが、関係ありません。来る大変動は、私たちが肉体に生きていようが、それを脱ぎ捨てていようが無関係に、私たちに関与するでしょう。肉体における地球の理解を獲得しなければ、死と新たな誕生の間にそれが効力を発揮することもないでしょう。今肉体においてキリストの何らかの理解を獲得する人々にとって、キリストを見る瞬間が来るときが、死の門を既に通過している時かどうかは、どうでもよいことです。しかしキリストの理解を今拒否する人々がこの瞬間の来るときに既に死の門を通過していたなら、彼らは次の受肉まで待たねばならないでしょう。なぜならそういう理解は死と新たな誕生の間では獲得できないからです。しかし一度基盤が獲得されると、それは永続します。そしてキリストは死と新たな誕生の間の期間にも見えるようになります。このように人智学は私たちの肉体の生のために学ぶものであるばかりか、死に際して肉体を置いたときにも価値があるものなのです。

以上が、今日皆さんに人間性の理解として、多くの疑問に答える際の手引きとして、伝えたいと願ったことです。自己認識は困難です。なぜなら人はとても複雑な存在だからです。この複雑さの理由は、彼が高次の諸世界と存在たち全てと関連しているということです。私たちは自らの内側に大世界の影像をもっています。私たちの構成要素の全て−肉体、エーテル体、アストラル体、私−は神的存在たちのための世界なのです。私たちの肉体、エーテル体、アストラル体、私は、1つの世界を形成しています。もう1つの世界は高次の世界です。天の世界です。神的霊的存在たちにとって、高次の諸世界は高次の神的霊的諸世界における体の構成要素なのです。

人はとても複雑です。なぜなら彼はまさしく霊界の鏡像だからです。そう悟るなら人は自分の内在価値を自覚するでしょう。しかし、この知識から、私たちは霊界の映像であるのに、それなのに私たちはあるべき姿に達していないと知ることから、この知識から、人間存在としての自分の価値の自覚に加えて、マクロコスモスと神々への謙譲と面目なさという正しい姿勢をも獲得します。

講義終了時の質疑へのルドルフ・シュタイナーの回答

問い:「異言を話す」(コリント書第1章第12節)という聖パウロの言葉はどう理解すればよいのですか。

答え:例外的な人間存在において、目覚めた状態で話すという現象が存在するだけでなく、そうでなければ眠った意識においてのみ存在する何かがこの発話に流れ込むことがあります。その現象について聖パウロは触れています。ゲーテも同じ意味でそれについて語っています。この現象について2つのきわめて興味深い論文を書いています。

問い:キリストの慰めの言葉をどのようにして理解するのですか。

答え:あたかも自分の心で生まれたかのように人間存在はこの慰めの言葉を感じるでしょう。肉体的聴覚を通して受け取ることもできます。

問い:化学的な諸力と実質は霊界に対してどんな関係にあるのですか。

答え:相互に化合したり分離したりできる幾多の実質が世界には存在しています。私たちが化学的行動と呼ぶものはデヴァカンの世界−天球の調和の領域−から物質世界に投射されています。原子重量に応じた2実質の結合において、私たちは天球の調和の2つの音の影をもちます。物質世界における2実質の化学的親和性は、天球の調和の世界からの影のようなものです。化学における数比は実際、物質の濃密化のために押し黙った天球の調和の数比の表出です。物質的実質をエーテル的希釈にもちこみ、原子数を内的形成原理として実際に知覚できるなら、天球の調和が聴こえることでしょう。/

私たちは、物質世界、アストラル世界、低次のデヴァカン、高次のデヴァカンをもっています。体を物質世界よりさらに引き下ろすなら、潜在物質世界、低次のアストラル世界、低次の、より正確には邪悪な低次のデヴァカン、低次の、より正確には邪悪な高次のデヴァカンに入り込みます。邪悪なアストラル世界はアーリマンの領分です。邪悪な高次のデヴァカンはアシュラの領分です。化学的行動を物質界より、邪悪なデヴァカン世界に引き下げるなら、磁気が生じます。光を潜在物質界に投げ込むなら、電気が生じます。もし天球の調和に生きるものがさらに深く、アシュラの領分に投げ込むなら、さらに恐ろしい力が発生します。将来それをあまり長く隠し続けることはできないでしょう。この力が来たときには、最も凶暴な放電よりはるかに、はるかに強いものと思わねばならない力が招来したときには、発見者がこの力を人間性の手に渡す前に、人間存在がもはや道徳に反するものをもう何ももっていないことを望むしかありません。

問い:電気は何ですか。

答え:電気は潜在物質状態における光です。そこで光は極度に圧縮されています。内的な質も光に帰されねばなりません。光はあらゆる点で自分自身です。暖かさは空間の3次元に自らを拡張できます。光において私たちは第4次元について語らねばなりません。それは4重に自らを拡張できます。それは第4次元として内面性の質をもっています。

問い:地球の死骸に何が起こりますか。

答え:古月進化の名残として、私たちは地球をめぐる現在の月をもっています。それと同じ様に、木星をめぐる地球の名残があるでしょう。それからこれらの名残は徐々に宇宙のエーテルに溶けるでしょう。金星には何の名残もないでしょう。金星は、まず、純粋な暖かさとして開示するでしょう。それから光になり、そして霊界へ移行するでしょう。地球の残した名残は死骸に似ているでしょう。しかしその道は人が地球に伴ってはならない道です。なぜならそうすることによって人は恐ろしい拷問にさらされるでしょうから。しかしこの死骸について行く多くの存在たちがあるでしょう。なぜなら彼ら自身はそうすることによって、より高次の段階へと発達するからです。

潜在物質界として反映する

アストラル世界・・・・・ルシファーの領分

低次のデヴァカン・・・・アーリマンの領分

高次のデヴァカン・・・・アシュラの領分

生命エーテル

化学エーテル

光エーテル

潜在物質アストラル世界:電気

潜在物質低次のデヴァカン:磁気

潜在物質高次のデヴァカン:破壊の恐ろしい諸力



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