これから書くのは、懺悔でもあります。なぜなら、8月23日に発売されるユリイカ8月増刊号「宮崎駿『千と千尋の神隠し』の世界―ファンタジーの力―」に私は寄稿したのですが、もろにネタをばらしているからです。かの有名なアガサ・クリスティーの『アクロイド殺人事件』の犯人は語り手だと、どきどきしながら読んでいる友だちに言うようなものです。映画評論家の某氏が、TVで本編の始まる前の口上で、「このお父さんは最後に死んでしまうのですね」とばらすのを聞いて、思わず腰がくだけた思い出がありますが、私もユリイカでそれをやりました。
ですから、私の罪を少しでも軽くするように、映画を御覧になっていない皆さん、見てから読んでください。そうすれば、掟やぶりの罪も大目に見てもらえるでしょうから。
もっとも映画は快進撃で、前作『もののけ姫』どころか、世紀の大凡作『タイタニック』をも凌ぐ勢いで観客を集めているようです。口コミの力が大きいのでしょうね。「見たけどスゴイ面白かったよ」と友だちに言われると、「じゃあ、見ようかな」となるものです。そのために、配給会社は試写会を組んで、盛り上げるのです。
私は平日の昼間、新宿で幸運にも上映直前に映画館にすっと入ってそのまま、まずまずの席に座って楽しみました。何だ、評判ほど混んでいないじゃないか、と思って、外に出ると長蛇の列、次回もう立ち見ですと係員が拡声器で言っていた。やっぱり、にぎわっているのですね。
異界を訪れた10歳の女の子の話です。両親は神様の食べるものを無断でばくばく食って、ブタに変身しました。それで、不思議の町の銭湯で下働きをすることになる。自分の存在が透明になって、世界に溶けてしまわないように。
異界を訪れた時に、準備が整っていない者が本性を現わすというテーマは、古来東西を問わずに、秘儀参入で繰り返し出現する大きなテーマです。古代ギリシアの劇詩人ホメロスに『オデュッセイアー』という作品があります。そこで、オデュッセウスと部下たちは放浪の旅のさなかでキルケーの島を訪れます。この魔女は美女で魔法を心得ていて、一行は大変な歓待を受けます。部下たちは飲めや歌えの大騒ぎをして、自分たちの旅の目的をすっかり忘れて、この島に順応してしまいます。ところが、オデュッセウスだけは海岸に出かけて、はるか故郷イタカのことを思い出して、そこに残して来た妻と子どもと仲間たちを思い涙に暮れます。彼は魔女の魅惑に打ち勝ち、出航することができますが、部下たちはブタに変えられてしまったのです。
これは明らかに、秘儀参入者が満たすべき条件を雄弁に物語っています。つまりブタとは、秘儀参入に失敗した人間の姿なのです。
『西遊記』を読まれた方なら、猪八戒がどれほど魅力的なキャラクターか、ご存じでしょう。今でもブタはその姿と行動と生理学のすべてにおいて、他の動物と異なることを明かしています。ユダヤ教やイスラム教でブタを食べるのを禁じているのは、意味深長です。御承知のように、お釈迦様は豚肉を食べ過ぎて亡くなったという伝承もあります。
このようなブタとの文化的な関係とか、八百万の神々との生活で、怖いながらもその怖さのために成長を遂げる「教養物語」として読みといてみようかと、見る前はいろいろ考えました。そうすると、稲垣足穂の短編を引用する必要があるかな、毎日とんでもない妖怪に悩まされるが、来なくなると、ふと妖怪の訪問が懐かしくなるという話だ。三島由紀夫がどこかで引用していたな、探そうかな。
まあ、こんなふうにいろいろ考えていました。
ところが、見てみるとどうも様子が違う。そのうえ、パンフを読むと、恋愛と成長をキーワードにした話はもうたくさんだと宮崎監督がきっぱり言っている。
これは困った。それなら、やはり水を中心とした四大エレメント、地水火風でまとめよう。そして、暗示にとどまった物語の骨格を勝手にでっちあげてみようということになった。
水については書きやすかった。なぜなら、監督が自然破壊に対してはっきりとコメントしているからだ。『となりのトトロ』もそうだ。その点では、同じように水に強烈な関心を抱いていたアンドレイ・タルコフスキーとは大違いだ。環境破壊に対するメッセージ、水というエレメントの神秘性を声高に語ろうとすると、タルコフスキーのコメントがいつも耳に響く。「なぜ私が水を使うのか。何か象徴的な意味があるのか。いや、何もない。水はとても魅力的だから、ただそれだけの理由で自分は水を使うのだ。」
こう言われると、なかなか先には進めない。だが、水の響きの神秘性を彼ほど明らかにした映画作家はいない。一滴の水が滴る時に、たてる音がどれほど雄弁であるか。発狂せずにその神秘を体験できる者はあるまいとすら思う。武満徹さんが『ノスタルジア』で多種多様な水音が細心の配慮で使われていることを記していたが、まさしくそのとおりだ。
というわけで、水の変態をめぐる神秘をユリイカに書いたわけだが、後で思うと、数年来私の関心はずっとここにある。尾道市立美術館の「曼陀羅展」の図録でも「龍展」の図録でも、水の不思議を書いて来た。
残念ながら、ヴィジュアルの側面は本論では全部捨てた。湯屋「油屋」の内装が俵屋宗達顔負けの圧倒的な迫力で細部まで描き込まれている点や、デジタルエフェクトの問題は何も触れなかった。設備さえ整っていれば、フィルムなしで上映できるデジタル処理が『千と千尋の神隠し』の特徴でもあるからだ。
捨てたテーマで一番大きかったのが、湯屋とその外の世界の対立と交流だった。湯婆婆が支配する閉鎖空間の湯屋と銭婆が住む開放空間の自然の世界。
興味を最もそそられたのが、宮崎監督のコメントだ。湯屋は夏の世界で、銭婆の世界は冬の世界だということ。しかし、銭婆の世界は入道雲が湧く雄大な、そして親密な世界なのだ。一見常夏の空間だ。
御承知のように、私はBD農業、シュタイナー農法にも関わっている。だから四季の働きについてはずっと関心をもって来た。興味を引かれないわけがない。
そこで、こういう想定をした。神々が疲れを癒しに来る湯屋は原初の創造段階を暗示している。このような濃密で渾沌とした世界があって、それから整然とした秩序を保った私たちの知る大自然が成立するようになったのだ。
だから、と大きな飛躍をする。悪く言えばこじつけだ。え? よく言ってもこじつけですか。硫黄の噴きあがるチムニー、海底火山のありさまが湯屋に描かれているのだ。深海数千メートルに海底火山があり、そこから沸き上がる噴煙、硫黄の熱水は、生命現象を真っ暗闇の周囲で生み出しているのだ。最近になってテクノロジーのおかげで、私たちはそれを実際に観察できるようになった。それまで私たちは深海が荒涼とした暗闇で栄養素に乏しく、生命の枯渇する環境であると信じていた。もちろん、温泉の吹き出さない、火山の亀裂がない多くの深海の底はそうだろう。しかし、火山と温泉は状況を一変させるのだ。火山の熱いスープは豊かな栄養を含んでいる。
ところで、温泉の生命力の強大さは観察可能だ。草津温泉の湯畑に行くと、濃い緑が熱湯の流れにびっしりとこびり着いている。これは硫黄バクテリアだ。彼らは非常な高温でも生活することができるのだ。そして彼らは、言うなれば、葉緑素を含む植物の原初の形態だ。濃い緑がそれを明かしている。硫黄の黄からバクテリアの緑への変遷は非常に興味深い。
この辺りは文献をしっかりと挙げて論証してみたいところだ。
あと、もうひとつ捨てたものがある。湯屋の働き手たち。ナメクジ女にカエル男。「鳥獣戯画」の遠い引用なのかも知れない。こいつらはいつも湿り気の多い陰気な場所にいる。カエルはともかく、ナメクジは農業者の敵だ。カタツムリもそうだ。あいつは殻をつけたナメクジだ。次の段階に進むべき生命物質を、彼らはその前の段階で食べてしまう。
ただしシュタイナーはナメクジやカタツムリの這った跡に残る七色の虹を、原初の生殖創造との関係で話している。だが、そのテーマでここで展開することはできない。
カエルは代謝系と生殖生活に特徴がある。鞭のようにしなやかな長い舌を伸ばして食べ物をとるのを想像してみよう。大変な跳躍力を想像してみよう。春先のカエル合戦を見よ。そして彼らは初めて陸上にあがった生物だと言われている。両生類という言い方に水から陸に上がったという事実が現れている。少しずつ晴れ上がって来た空気、まだ湿り気をたっぷり含む空気の中で、はじめて彼らのコーラスが響く。妙にユーモラスな、くりくりっとした眼をしている。もちろんヒキガエルのように、運動系の力をすべて排泄のほうに集中して、毒の汗を流すものもいる。
こうした話ははじめるときりがない。
ただひとつ、空想でない厳然たる事実を挙げておこう。以前と比較すると、サンショウウオはもとより、イモリやカエルが棲息できる環境が大幅に消失してしまった。古今亭志ん生は廓噺で、吉原までの田んぼ道をカエルの声を聞きながら浮き浮きと出かけるさまを描いていた。志ん生の落語は非常な文明批評に達している時がある。例えば、こんなふうに。「私の子どものころにはドロボウヤンマなんてのがいた。オニヤンマなんてもんじゃない。出刃包丁をもって、家の中に入ってくる」。上野の科学博物館に行くと、大昔に実際にそんなでかいトンボが飛んでいたのが事実だと分かる。大きな模型がぶら下がっている。
大げさに言っているだけだと思われそうだが、今年アメリカの科学者が、全米で両生類の棲息地とその数が激減しているというデータを発表した。その記事を読むと、アメリカでもやはり、両生類の動向を観察する科学者は少ないそうで、それだけに今回のデータは貴重なものだと評価されている。
カエルやイモリが減ったのがなんだと思われるかも知れない。アメリカの科学者は言う。両生類は陸にあがった最初の生物として生命力にあふれた存在だが、しかし、環境、特に水と関わる環境に支配される存在である。だから、全米で両生類が激減し、その州で絶滅してしまったものがいるという事実は、水を含む環境が急激に悪化したことを指し示しているのだ。たくましい生命力のカエルすら生きていけない状況が到来したのだ。
アメリカでもそうなのだ。日本の環境破壊がそれよりましだとだれに言えるだろうか。
ここまで言えば、『千と千尋の神隠し』の湯屋「油屋」で働くカエルやナメクジが棲息できる環境を復活整備することが、ひいては、人間の快適な住環境を生み出すことになると言っても差し支えなかろう。
うーん、やっぱりこじつけかなあ。
とにかく、映画を見て、『ユリイカ』増刊号、興味があれば読んでください。そこでは、これまで未訳であるルドルフ・シュタイナーの話から引用して、水の不思議を、映画にそって探っています。
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