手で考え、足で思う(下)



前回私は、人間は手と足において彼の外に広がる世界と接触している、その手足を操って自己の内なる思念を外世界に刻印する、と述べた。そんなことは考えるまでもない、当り前のことだと感じられた方もあろう。しかしながら、手足、とりわけ手、が外世界の事物と直接交渉をなしている、という平凡な事実は考えてみればみるほど妙味をますことなのである。私が、人間の頭部は手足と異なる関係を世界の事象と結んでいる、と言っても、誰も反対しないだろう。頭部・神経=思考組織は、それ自身が生み出した或る思考が、外自然の事物の背後に潜んでいるのを認めることができる。感覚的に享受できる自然現象を支配する様々な法則を発見する時、その法則に対応する思考が自らの内にあることに人は気付く。自然の法則は外自然の内に隠されているのに対して、思考は人間の中で光のように閃く。しかし思考は自然の法則を確認するが、それ以上の働きかけはしない。たとえばハレー彗星がある日時にある地方でどの方向の空に現われるか、思考を通して、人は知ることが可能だが、それを観測するには手足の参加が必要である。これで、頭部と手足の世界関与方法の相異は認めることが可能になったと思う。

だが、頭部-神経組織、胸部-リズム組織、腹部-新陳代謝組織、四肢-行動組織、これらを人間のうちで統治しているものは何者なのか? それは、頭部を指して胸部を指して腹部を指して四肢を指して、これは私であるというものであろう。通常の学間なら、自我の確立のテーマとでも呼んだであろうが、ルドルフ・シュタイナーは、自分自身に向かって人が「私は」と発語する時に働くカを強調した。「私は」と発言できるのは「私」以外にありえない。しかし、ドイツ語なら 'ich' 英語なら'I' とその「私は」を名付ければよいが、日本語の「私は」とは、「私」か「僕」か「わたくし」か「俺」か「わし」か「あたし」か「おいら」か「自分」か「吾輩」か「小生」か「手前」か「我」か? 英文法では 'It is fine.'(晴れだ)の 'It' を漠然とした「状況」の 'It' と呼んだりするが、日本語における「状況」の 'I' は私たちに、私たちがどれほど「私」でないかを痛感させる。何もこうした技葉末節に拘泥する必要はあるまい、「私」が由来するところのものを「自我」と称すればよいのだと言われるなら、こう問おう。貴方は「自我は学校へ行く」といった話し方をしているだろうか?と。私が問題としているのは、シャーレの中に保管された「自我」ではなく、日々を生き通してゆく「私」であると。

「私」だけが自らを私と呼べる。そして、シュタイナーの言う「私」とは、聖パウロのように「私ではない、私の中のキリストだ」と言える萌芽を秘めた「私」だった。シュタイナーによれば、人が「私は」と真に発語できるようになったのはゴルゴタの秘跡以降の事である。キリストが七つの秘跡によって人類史に介入した事によって、個々の人間の自我が世界にむかって発現してゆくことが可能となった。しかし、日本人である私が、日本語によって、自我を体験するのは本当に可能なのだろうか? 状況に捕縛された、自分の勤める会社の「自我」、自分の生まれ育った土地の「自我」、自分の家族の「自我」等の体験で、個としての「自我」ではないのではなかろうか? 日本語を観察する限りでは、人と人とがつくりだす状況こそが日本人にとって実体、事実であり、個々の存在の固有である自我は虚構、夢幻と思われる。日本人は、果たして、自我を受容しうるほど進化しているのだろうか? もし進化していないとしたら、私たちはいわばキリスト以前の時代に生きた人間の意識を持って、現代を生きていることになる。そんな日本人に、物質科学文明を生み出したヨーロッパの心性にむかって呈示したルドルフ・シュタイナーの思想を学ぶことが可能なのだろうか? 私にはまだわからない。ただ、もし可能であるとしても、そのためには非常な克己と修練が必要であろうと思う。

私は、自我を備えた個が、日本人として生まれ育ち、日本語を母国語とする時、その自我は不如意な日本語を使ってどのように自己表現するか、想像してみる。彼は動きはじめたばかりの幼児が手足をバタバタと動かしながらその統御を知ってゆくように、主語・動詞・目的語等、文法の基礎練習を倦まず続けてゆくであろう。彼は恐らく繰り返し繰り返し「私」という言葉を「あなた」という言葉を使うであろう。その一点において、彼の日本語は、日本の古典の規範を逸脱しているであろう。その執拗な内的動きは、自我が日本語の「私」という器に入りこみ何とか住みなそうとしている、その努カの現われなのである。

そこにはどのような知覚が盛りこまれているだろうか。彼は彼という存在の主である自我が、思考によって外的事物を知覚する有様を、自我の道具である手足によって外的事物に働きかける有様を、述べるであろう。私たちは、自我と外的自然を往復する思考の光の運動を、認めるであろう。

たとえば、陶芸家河井寛次郎の次のような文章は、以上述べてきたような魂の動きを体現しているのである。

手考足思

私は木の中にゐる石の中にゐる、鉄や真鍮の中にもゐる、
人の中にもゐる。
一度も見た事のない私が沢山ゐる。
始終こんな私は出してくれとせがむ。
私はそれを掘り出し度い。出してやり度い。
私は今自分で作らうが人が作らうが
    そんな事はどうでもよい。
新しからうが古からうが西で出来たものでも
    東で出来たものでも、そんな事はどうでもよい、
すきなものの中には必ず私はゐる。

私は習慣から身をねじる、未だ見ぬ私が見度いから。

私は私を形でしやべる、土でしやべる、火でしやべる、
木や石や鉄などでもしやべる。
形はじつとしてゐる唄、
    飛んでゐながらじつとしてゐる鳥、
さういふ私をしやべり度い。
こんなおしやべりがあなたに通ずるならば
    それはそのままあなたのものだ。
その時私はあなたに私の席をゆづる。
あなたの中の私、私の中のあなた。

私はどんなものの中にもゐる
立ち止つてその声をきく
こんなものの中にもゐたのか
あんなものの中にもゐたのか

あなたは私のしたい事をしてくれた、
あなたはあなたでありながら、
    それでそのまま私であつた
あなたのこさへたものを、
    私がしたと言つたならあなたは怒るかも知れぬ。
でも私のしたい事を
    あなたではたされたのだから仕方がない。

あなたは一体誰ですか
さういふ私も誰でしやう
道ですれちがったあなたと私

あれはあれで、あれ
これはこれで、これ
言葉なんかはしぼりかす

あれは何ですか、あれはあれです。
    あなたのあれです。あれはかうだと言つたなら
それは私のものであなたのものではなくなる。

過去が咲いてゐる今
未来の蕾で一杯な今

(『六十年前の今』東峰書房)

言葉の響きそれ自体が意味・生命を展開する詩文を一つの「体験」としてさしだされる時、「しぼりかす」の言葉は畏怖にうたれて沈黙する。「手で考え、足で思う」は、ルドルフ.シュタイナーの言葉であり、河井寛次郎の言葉である。そして、いつか、それは私の言葉となりあなたの言葉にならねばならない。河井寛次郎について教えてくれたニュージーランドの芸術家ジェイムズ・グリーグに心からの感謝の念を表明して本稿を閉じる。

初出
「ゆずり葉」1986年3月39号、かなや工房(金谷博雄)発行



ホームへ