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ニッポンリポート 財田川事件(1) 死刑囚が再審の結果、無罪となった事件が4つある。免田事件、松山事件、島田事件、そして、財田川事件だ。財田川事件は、その名のとおり、1950年2月、香川県西部を流れる財田川を1つの舞台として展開した強盗殺人事件であった。 国鉄(現JR)土讃線の讃岐財田駅は、山をひとつ越えると徳島県となる。その駅から南方500メートルのところに、杉山重雄(63歳)の家があった。財田村(当時)の中心地から外れているためか、人家が点在している地域である。一軒家で、八畳間、四畳間、炊事場、土間が1階にあり、中2階は梯子を使って昇り降りしていた。杉山は妻子と別居し、1人で暮らしていた。農業のかたわら、ヤミ米ブローカーをしたり、闘鶏賭博もするといわれていた。 2月28日午後5時ごろ、1人の男が、米を売ってもらうため、杉山宅を訪れ、四畳間で死んでいる杉山を発見する。すぐに、別居していた妻に連絡が行く。妻は、讃岐財田駅の近くに住んでいた。約2時間後、妻から警察に届けがされ、地元の三豊地区警察署(現観音寺警察署)と応援の香川県警本部により、捜査が開始された。 届け出が発見約2時間後だったため、「現場保存の観念なく、近隣の者が多数屋内に立ち入り、遺留足跡を消したり、現場にあった経済違反物件を持ち出したり、相当現場を攪乱しており、捜査に支障を来した(捜査開始後は完全な現場保存を行った)」(捜査報告書)。翌3月1日、警察が現場検証を行う。その現場検証調書には、「被害の模様」として、次のようなことが書かれていた。 「(玄関とは別にある炊事場の出入口には)半間(約0.9メートル)の板戸が入っている。戸の錠は内部よりする、俗にいうゴットリになっておる。開閉に際してはゴロゴロと車音がするも、容易に開閉はできる」「(ゴットリのある付近に)短刀様のものにて3カ所ぐらいの刺痕があり、右側の分は内部に貫通しており、犯行当時ごろできた痕跡と認められる」 「被害者は、就寝中のところをやにわに鋭利な短刀様のものにて傷つけられたものと認められ、寝具、下布団南側には、背中のあたる付近まで、血痕が多量に付着し、同人の枕にも位置は変わることなく、右側上部に血痕を認められ、次に就寝中の頭部にあたる襖および左側襖にも、飛沫状血痕が付着していて、 また、被害者の枕の横には、赤色花模様入り中古座布団1枚を二つ折りにし、枕の代用にしていたようになっており、その位置は、やや斜めに変わっていて、これにも、飛沫状血痕が多量に付着していた。次に、上布団は、はね起きた格好になっており、2枚の中、下側の人絹布団ならびに国防色毛布には同じく多量の血痕が付着している。また、枕もとの雛鶏用胴丸籠にも血痕付着し、また、板の間に至る出口付近の敷紙および襖には、多量の血痕が付着している。 同場所より、西側に向かい、連続して、敷紙上に一面擦過状の血痕付着し、次は北側障子戸に被害者がすがりついて歩いたものか、横ばいに血痕が付着し、西側障子は少し開けて、木戸ならびに柱に触れたような血痕が認められる。 被害者は、その場所に南側に頭部を向け、仰向けに倒れており、右足は、前記柱に踵をつけ、畳の縁にそい、まっすぐに伸ばし、左足は、角度45度ぐらいに開いて、同じくまっすぐ伸ばしており、右手は、曲げて虚空をつかみ、顎のところに、左手は同じく曲げて肘を畳につけ、拳は上方にして、虚空をつかんでいる。その両手とも、創傷を負い、鮮血にまみれている。 頭部顔面には、2月21日付の新聞を押し当ててあるが、創切刺傷は、頭頂部、口部、右耳部などに多数認められ、その出血は、左に顔を振っておるため、左肩、左胸部、下方の畳上に多量に流出し、約2尺5寸(約75センチ)平方は血の海となっている。なお、その血糊の中に、被害者の入れ歯が転げ落ちていた。 被害者の着衣は、上体に、袷縦縞寝巻、白ネル襦袢、紺色チョッキ、ねずみ色毛糸アンダーシャツ、白メリヤスシャツを着し、下方は、メリヤスパンツをつけてあるのみである。足もとには、血痕付着の白ネル腰巻様のものを丸めて置いてあった。なお、ズボンは寝床南横の襖のところに吊りかけてあった。 次に、被疑者の足跡と推測されるものが、被害者の左胸部横に右足先端を西向きに、血糊の中に踏み込んだのと、同様の足跡にて、東向き(炊事場出入口に向かって)被害者の両足の中間に1個、次に、4尺2寸5分(約1.28メートル)の前方に1個、さらに、3尺4寸(約1.02メートル)の前方にいずれも、血液付着の靴の足跡が遺留されている」 「被害者が常時携帯するという胴巻は、被害当日の昼間、近所に新築の手伝いにいき、土埃の付着したズボンを吊った内側にともに吊ってあった。内容品は、鹿皮二つ折り財布1個あり、在中金(10円札5枚、1円札17枚、5円札4枚、50銭札3枚、10銭札4枚、5銭札1枚、50銭貨1枚)計89円45銭と認印1個、衣料切符、保険預かり証等が入っていた」 「以上を見分して、被害状況を察するに、被疑者は、炊事場出入口より侵入し、就寝場所に至り、いかなる方法か推測しがたいが、短刀様凶器にて、被害者を殺害の上、同人が日ごろヤミ取引により蓄えていたという2万円ぐらいの現金のみを強奪の上、侵入口より逃走したものと推測される」 さらに、3月1日、岡山医大(現岡山大学医学部)法医学教室の助教授によって、杉山宅の庭先で杉山の解剖も行われた。 後に提出された鑑定書によると、死因は他殺による失血死であり、頭頂部、顔面、左胸部、右腕、両手、右大腿部などにある約30カ所の傷は、「大部分は有刃の凶器によって生成せられ、一部には鈍器によると推せられるものも存在する」が、 「鈍器による衝突、擦過ないしは強圧等に由来する表皮剥奪、あるいは皮下出血等の軽度の損傷」であり、杉山が抵抗するさいに自傷したものと判断された。損傷の中でも、左胸部の「第三肋間に、長さ約2センチ、幅約0.8センチの不整形の刺切創が左上方から右下方に少しく傾走し」ている傷は、「前胸壁を貫いて左胸腔内に達し、左肺を刺傷し」「長さ約1センチ、幅約0.3センチ、深さ約5センチおよび長さ約2センチ、幅約0.7センチ、深さ約8センチなる2個の刺切創を生じたるものと認められる」。 つまり、傷口が1つなのに、内部の傷は2つ存在したのである。 また、死後経過時間は、「本屍に現れた各種の死体現象の程度、死因および犯行当時の気候等を参考として、本屍の死後剖検に至るまでに24時間を経過し、いまだ48時間に至らないものと考えられる。また、本屍の胃内には認むべき食渣のない点から、もし、本屍が2月27日午後8時ないし午後9時ごろに食事し、その後、死に至るまでに食事を採取しなかったものと仮定すれば、その死はおそらく食後5、6時間を経過した時間、すなわち、2月28日午前1時ないし2時以後に起こったものと推定せらる」。 この強盗殺人事件の捜査は多方面に及んだ。犯人は返り血を浴びたはずだと、目撃者を探した。被害者が、徳島、高知方面からの米買い出し人相手のヤミ米ブローカーというので、70人近くの米買い出し人を参考人として調べたが、犯人らしき者は見つからない。また、女性関係もあったと見られたことから、痴情、怨恨関係で10人ほどを捜査したものの、疑わしい者が出ない。地元の素行不良者と思われる60人以上もの人間も調べたが、はっきり犯人と断定できる者はいない。事件は迷宮入りの様相を呈していた。 ところが、1カ月後の同年4月1日深夜、隣接する神田村の農協に強盗が押し入って、居合わせた職員を刺身包丁で傷つけるという強盗傷人事件が発生した。4月3日までに、犯人2人組が逮捕される。いずれも、財田村の素行不良者として名前のあがっていた男だ。2人は素直に犯行を認め、6月15日には、高松地裁丸亀支部で、懲役3年6月の判決を下された。 警察は、この強盗傷人事件と強盗殺人事件は手口が似ているので、これも2人の仕業ではないかと考える。そのうち1人にはアリバイがあるが、もう1人の谷口繁義(19歳)にはアリバイがない。「財田村民の一部では、『谷口は人を殴るし、脅し、傷つけることもあるし、金も盗むから、地元に犯人がいるとしたら、谷口以外に犯人はない』とうわさしている」(捜査報告書)との聞き込みもあった。そこで、捜査の中心が谷口に絞られていった。 谷口は、小学校高等科を中退し、44年8月から2カ月近く、青年勤労報国隊員として、九州の炭鉱で働く。戦後の47年、進駐軍の警備員をしたが、6カ月でやめ、実家の農業の手伝いや炭焼き、池普請などの手伝いをしていた。49年10月、強盗未遂事件で裁判を受け、懲役2年6月、執行猶予5年をいい渡されたことがあった。当時、姉と2人の兄は独立し、両親と弟の4人暮らしであった。 谷口は、強盗傷人事件で起訴後、後に起訴猶予となる2件の別件でも逮捕され、4月20日、収容されていた丸亀拘置支所から三豊地区警察署に移監され、さらに、6月21日から8月29日まで、同署高瀬派出所に移監され、派出所長の小泉警部補から、長期にわたり取り調べを受けた。 谷口の調べをする中で、49年8月ごろ、別の男と一緒に杉山宅に空き巣に入り、畳の下に隠してあった1万円を盗んだことが判明する。警察の追及は厳しくなった。その結果、7月27日、初めて強盗殺人事件の自白調書が作成される。その後、一時、否認したものの、再度自白に転じ、8月1日、本件の強盗殺人罪で逮捕されたのである。 数多い自白調書をとられ、犯行を認めた手記も5通書いた。自白内容は、杉山宅への侵入方法について、1万円を窃盗したときと同じ「中二階」と供述したのが、「炊事場の出入口」となったり、凶器は、「井戸に捨てた」のが「川に捨てた」と変化し、最初、寝ていた杉山に、「オイオイと声をかけた」と話していたが、「いきなり刺した」ことになるなど多くの変遷があったものの、自白調書の集大成である検察官作成の第4回供述調書(50年8月21日付)には、谷口の犯行のようすが次のように事細かに書かれていた。 「本年(50年)2月、旧正月を迎えるにあたって、私は約1万円余りの借金があり、貸主の一部から早く支払ってくれと催促を受け」「一方、旧正月を迎えても小遣いもなく、どうしたものかと思案中、仲間の者(いわゆる素行不良と見られている者)から、杉山がヤミ米のブローカーをして、常に相当な現金を持っているということを聞いておりましたし、 また、仲間と2人で、杉山方で1万円を盗んだこともあり、杉山が相当な金を持っているものと考えました」「杉山方で金をとろうということを、事件の1週間ぐらい前の2月20日ごろから考えるようになりました」 「その方法としては、45年7、8月ごろ、財田村青年学校から盗み出し、私方の風呂場焚口の上の養蚕用の木を積んであった下に隠してあった刃渡り約7、8寸(約21〜24センチ)の刺身包丁を持っていき、 第一に、財布の入った胴巻が容易に見つかる場合は、杉山に危害を加えず、そっと金を盗んで帰り、第二に、杉山が胴巻を身体につけている場合、または、胴巻が容易に見つからぬ場合は、包丁を突きつけて、相手を脅かして金をとるか、または、相手にいきなり切りつけるか突き刺して相手をバラし(殺すの意)、金をとるという場合を考え、そのときの状況に応じて、右の中のいずれかの方法を決める計画を暗に立てていったのであります」 「2月27日の晩、弟とともに、いつものごとく自宅の座敷八畳の間に就寝してから、いよいよ今晩やろうかという考えが起こりました。 そして、服装としては」「進駐軍の放出物資である国防色S字入りの上着、その下に警察官用国防色綾織りの服、その下に白い長袖のカッターシャツを着用し、下はすそをしばる紐つきの軍隊用白の袴下の上に、国防色の中古ズボンをはき、靴下は当時使用中の青、赤、白のだんだらのものを用い、靴は、やはり、当時使用中の黒革製短靴にしようと考え、皆が寝静まってから出かけようと考えて、自分も寝た風をして、時間を待ちました」 「午後11時の時計が鳴ってから、約30分ぐらい後に、枕もとに置いてあった右のごとき衣類をつけた上」「表口に置いてあった黒靴をはいて、風呂場へ行き」「刺身包丁を取り出したのであります」「ところが、指で包丁の横をなぜて見ると、ざらざらして錆びているらしかったので」「研ごうと思い」「まず、荒砥に水をかけて研ぎはじめました」「荒砥を済ました後、今度は荒砥と並んで置いてあった金剛砥石でさらに磨いて刃をつけ、刃のところへ指をあててみると、ざらざらとした感触でよく切れそうになりました」 「包丁を研ぎ終わって」「杉山の住んでいるほうへ向かい」「普通の歩幅で歩き」「杉山方のすぐそばにある神社の境内に行き、腰をかけ、時間待ちをするため、そこに約2時間ぐらい、杉山方へ侵入する方法や犯行の方法を考えたのであります」 「かようにして待機した上、大体、翌28日午前2時ごろだったと思いますが、いよいよやることにして、神社の境内を出て、杉山方に向かい、約30メートルぐらい進むと」「当方約2.3メートルぐらいに人影らしい気配が感じられましたので、境内へ引き返し」「約10分ぐらい様子をうかがった後、もう大丈夫だろうと思って杉山方の家の表に行ったのであります」 「杉山が在宅しておるかどうか、また、家にいるとすれば、寝ているかどうかをしるために、裏へ回り、炊事場のガラス(素通し)窓から家の内部をのぞき込みますと、電灯の光が襖の隙間や天井のあたりから見えましたので、さらに、西側の雨戸のところへ行き、戸に耳をつけて内部の気配をうかがいましたが、物音もなく、杉山は寝ていることがうかがわれたのであります」 「1万円の窃盗の際、炊事場出入口の戸には、ゴットリの仕掛けがあり、ゴットリを上にあげて引けば戸が開くことがよくわかっていたので」「腰の包丁を抜いて右手に持ち、刃を下に向けて、ゴットリのある個所を数回突いた結果、手応えがあったように思われましたので、戸に突き刺した包丁を右手に持ち」「両方の手で戸を持ち上げるようにして、向かって、右のほうに引きますと、戸が開いたのであります」 「音のせぬように静かに炊事場の出入口の戸を開いて中に入りました」「杉山は起きた様子もないので、同人の寝ている部屋にいくべく」「靴のまま床上に上がり、左手のつまさきを襖にかけて、静かに、向かって左のほうヘ約1尺5寸(約45センチ)か2尺(約60センチ)ぐらい開けて、内部の様子を見ました。杉山は、(20ワットの)電気をつけたまま1人で」「仰向けになって熟睡しておりました」 「そこで、私は、もし、顔を見られてはぐあいが悪いと考え、当時、4、5寸(約12〜15センチ)ぐらいの長さで顔にたらすと、下唇のあたりまで伸びていた自分の頭髪を前に垂らして、顔が見えないようにした上、身体を斜めにして部屋に入り、杉山の枕もとあたりに胴巻はないかと探しましたが、見当たらないので、とっさに杉山をやってしまって(殺す意)、金を探そうと考え、中腰の姿勢で包丁の刃を下に向けて」 「杉山の右横から咽喉を目がけて突き刺したところ、頭髪で顔を隠していたため、十分見えず、手もとが狂って杉山の左顎のあたりに差し込んだのであります」 「そのまま刺していると、杉山は、『うわっ』と2、3回、大きな声をあげ、左手で顔に突き刺さった包丁の刃を握ったので、私は、直ちに包丁を手元に引くと、杉山がすぐに掛け布団を両手ではねのけて、上半身を起こし、敷布団の上に座り、何か大きな声をあげました」 「私はその声が裏の隣家にまで聞こえると困ると思い、中腰で矢継ぎ早に杉山の右顔面部あたりを2、3回、突くと、杉山は、私が入った襖のほうヘ逃げようとしましたので、私は同人の背後から、その頭部を目がけて1、2回、包丁で切り下げ、杉山の前面をふさいで、杉山のほうを向いて入口に立ちました」 「すると、かれは、今度は北側の障子のほうへ向かって這っていき、障子のさんに手をかけたので、私は背後から同人の腰のあたりを一突きしたと思います。そして、杉山は、指を障子にかけたまま、目では私の持っている包丁のほうを見ながら、いざりはじめ」 「そこで、私は自分のほうを向いている杉山の顔面目がけて、4、5回、直突きをやると、かれは中腰になって私のほうを向いたので、私は同人の首のあたりを3、4回、突きました。すると、かれは、たんすのほうへ頭を向け、足を北側の障子のほうへ向け、斜めに仰向けになって倒れ、手足や全身をぶるぶるとふるわせましたが、もうこのときは声を立てませんでした」 「そこで、私は、杉山はもう死ぬだろうと思い、いよいよ金をとろうと考えて、包丁や手についた血を、杉山が下のほうに着用していたきれのようなもの(布であったか何だったか記憶なし)でぬぐい、包丁を右手に持ったまま、左手で杉山の着物を両方に開き、チョッキや襦袢をまくり上げますと、へそのあたりに垢のついた白木綿の胴巻を巻き、左側でトンボ結び(真結びの意)にしておりました」 「そこで、包丁を持った右手と左手で胴巻の結び目をほどき、左手で手前に胴巻の端をつかんで引き出し、杉山が最初寝ていた寝床の枕もとの上あたりに吊ってあった電気のところへ行って調べますと、胴巻の中央部に財布らしいものがありましたので、左手で胴巻の片端を握り、片端を下に向けてふりましたが、財布が出ないので、胴巻の口を右手に持ちかえ、左手を胴巻の口に突っ込んで、財布を取り出しました。 財布は二つ折りで、色も生地も記憶はありませんが、幅が4、5寸(約12〜15センチ)、長さが約7、8寸(約21〜24センチ)ぐらいあったように思います」 「財布の中には、100円札が二つ折りにして厚さ約1寸(約3センチ)ぐらいあり、10円札、5円札は折らず、厚さ約1寸(約3センチ)ぐらいあり、100円札も二つの浅い袋に入れてあり、深い袋のほうには、小銭らしいものがありましたけれども、盗んでもつまらんと考え、100円札と10円札全部を、私がはいて行った国防色ズボンの左横ポケットに入れた後、 財布は元のように胴巻に入れて、寝室(四畳間)と座敷(八畳間)の境の上のほうにあった着物かけの、向かって右の一番端の2番目あたりのところへかけたと思います。当時、着物かけには、何か衣類らしいものがかけてあったと思いますが、種類ははっきりいたしません」 「金をとってから、杉山の倒れているところへ引き返しましたが、顔が血でよごれ、いまだ血が下にたれておりましたので、私は恐ろしくなり、たんすの付近の置いてあった新聞の中、1枚をとって、杉山の顔面に横にかぶせました。新聞ははっきり記憶しませんが、まず、10枚前後はあったと思います」 「杉山が後で生き返ると困るので、心臓を突いておこうかと考え、杉山のへその上あたりをまたぎ、チョッキや襦袢を上にまくり上げて胸部を出し、包丁を刃を下向けに持ち、あばらの骨にあたると通らんので、刃の部分を自分から向かって斜め左下方に向けて左胸部の、心臓と思われるところを大体5寸(約15センチ)ぐらい突き刺しましたが、血が出ないので、 包丁を2、3寸(約6〜9センチ)抜き(全部抜かぬ)、さらに同じ深さ程度突き込み、ちょっとの間、杉山の様子を見ましたが、杉山は全然動かんので、もう大丈夫、杉山は死んだと思って、包丁を抜いたのであります」 「刺して後、杉山が身体につけていた着物で包丁をふいて右手に持ち」「犯行現場の部屋から出ました」「それから、炊事場に出て、最初入った出入口から家外に出ました」「早く自分の家へ帰ったほうが安心だろうと」「(財田川支流・多治川にかかる)帰来橋を渡って、右へ折れ、2、3間(約3.6〜5.4メートル)ぐらい行って、河原へおり、中ほどの水際で、進駐軍放出物資の上着、包丁、靴、手等を洗い、包丁を上着に包み」 「帰る途中」「(多治川と財田川の合流地点にある)轟橋で右手の取りつきから、西方に向かい、財田川の3、40メートルぐらいの水中へ包丁を投げ捨てました」 「自宅に帰り」「川で洗った上着を表の竹竿に干し」「弟の横へ入って寝ようとしますと、同人が、『どこへ行っていたのか』と聞くので、私は、『飲み屋へ遊びに行っていた』と答えると、弟は、『そうか』といって、寝てしまったのでありますが、まもなく3時が鳴ったのを覚えております。私は、弟が寝入るのを見て、枕もとに脱いでいた国防色ズボンの左ポケットから杉山でとった金を出し、数えてみますと、100円札で百十枚ぐらい、10円札、5円札で2300円ぐらいありました」 「興奮と不安で朝までほとんど眠れませんでした」 「28日の朝は眠れぬままに、いつもより少し早く午前6時半ごろ起き、私1人がさきに朝食をすまし、国防色上着は丸づけにし、国防色ズボンは脛から下の血痕のついているところをつまみ、いずれも石鹸で洗濯しましたが、上着はとくに血のついていた胸とすそ、右そで等を特別念入りに洗って、竿に干したのであります」 「杉山を殺してとった1万3000円余りの金は、犯行後、2、3日より、私が4月1日神田村の強盗傷人事件で検挙されるまでの間」「約5、6000円使いました」 「残額8000円の処分については」「実際には使っておらず」「4月3日午後6時ごろ、神田村の強盗傷人事件の容疑者として、三豊地区警察署の人たちが家宅捜索および私を逮捕に来た際」「八畳座敷の間で服装を取りかえるとき、私の背広の内ポケットに入れてあった100円札約80枚ぐらいを、私の黒色オーバーの襟の内側の小さなポケットに丸めて差し込んで隠したのであります」 「それを着て、警察官7、8名とともにトヨペットに乗りましたが」「警察につくまで何とか金を処分しなくてはならぬと考え」「県道を走る途中」「警護員に気づかれぬよう、オーバーの内ポケットから金を抜き出し、斜め左向きになって、ほろの窓よりつばをはくような風をして、ほろと車体の間に指を差し入れ、金を落としたのであります。この金は一番上の札の裏側に指でつけた血痕が1点あり、また、その下の2、3枚の札の横にも血がついてありました」 「杉山に対しては、殺すまでのことは考えていませんでしたが、短気のため、このような犯罪をやってしまい、ほんとうに申しわけないと思っており、同人の冥福を祈っております。これから、刑の宣告を受け、刑務所へ入っても、一生懸命まじめにやり、1日も早く出所して、家族に安心さしたいと思います」。 この自白調書が作成された2日後、50年8月23日、谷口は高松地裁丸亀支部に強盗殺人罪で起訴された。「被告は、金員強取目的をもって、50年2月28日午前2時ごろ、杉山重雄方に侵入し、就寝中の同人に対し、所携の刺身包丁(刃渡り約24センチ)をもって、いきなりその左頸部を突き刺したるほか、全身30数カ所に斬りつけ、または、刺創を与え、同人を殺害したる上、同人所有の現金約1万3300円を強取したものである」。 50年11月6日、高松地裁丸亀支部で、初公判が開かれた。捜査段階では全面的に自供していた谷口だが、罪状認否で、「本件事実は、全然覚えないのです」と全面否認に転ずる。このため、検察官は、次々と証人を繰り出したが、その多くは谷口自白の任意性、信用性を裏付ける警察官だった。中には服役囚もいた。かれは、丸亀拘置支所に入っていたとき、谷口と同房で、「私の考えでは真犯人」という趣旨の証言をする。弁護人は、事件当夜、谷口が自宅にいたというアリバイなどを家族、親戚に証言させた。 51年2月1日の第2回公判では、被害者杉山の別居中の妻が証言した。約1万3300円を奪ったとされたが、検察官が杉山の所持金の点を尋ねた。 ──重雄は、平素現金をどのくらい持っておりましたか。 「私の見たところでは、100円札としたら、15万円か20万円ぐらいを胴巻に入れていたと思います」 ──殺されたときは、どのぐらい持っていましたか。 「1万円か2万円であったと思います」 弁護人もこの点をただす。 ──重雄は、現金をどういうふうにして持っていたか。 「本件当時はしりませんが、いつも大金は、財布に入れず、小さい金を財布に入れ、ともに胴巻に入れて持っておりました」 ──寝るときはどうか。 「寝るときも胴巻を腹に巻いて寝ていました」 ──重雄が殺される前に、その胴巻を見たことがあるか。 「殺される4、5日前であったか、煙草を買いにきたことがありますが、そのときに見たのが最後です」 ──そのときは、大体、どれぐらい持っていたと思ったか。 「いつも、1万円とか2万円ぐらい持っていましたから、そのときも、そのぐらい持っていたと思います」 また、51年2月3日、第4回公判で、谷口の自白を引き出した小泉警部補も証言したが、そのポイントは次のような点であった。弁護人の質問に答えた。 ──本件犯行を被告がしたという積極的証拠があるか。 「積極的証拠はあると記憶しています」 ──記憶ではなくて、証拠として提出せらるべきものがあるか。 「あります。犯行当夜、被告が着ていた衣服で、それは国防色下服(ズボン)で、その服の右前に血液の飛沫がついている。また、靴下およびゴムバンドにも血液がついている。なお、白木綿のワイシャツの袖、袴下にも血液が付着している。これらが、積極的証拠と思うが、特に国防色下服はそうである」 ──それ以外には。 「犯人ならではしらないという事実をしっている」「胸をついた点の陳述と鑑定書の一致した点等が、犯人ではないかと思う証拠である」 ──国防色下服の飛沫は、物的証拠の唯一のものと思うか。 「そう思います」 ──国防色下服の血液の飛沫は、被害者の血液であるということは断言できるのか。 「断言できると思います」 ──できると思うではいかん。 「断言できます」 ──その血液の飛沫の鑑定の結果は見ましたか。 「鑑定では、型が判然わかっていないのです。いわゆる判定に苦しんでいるのです」 証拠として提出された国防色ズボンは、捜査段階で、岡山医大法医学教室の教授が血痕鑑定を行った。ズボンのほかにも、谷口が犯行時着用していた衣服などのうち、白いシャツ、袴下、靴下とゴムバンド、黒靴、さらに、被害者の胴巻、革財布も調べた。 これら8点を鑑定した結果、靴下、ゴムバンド、黒靴、胴巻には人血の付着はなかった。しかし、袴下には、小斑点の人血痕が2カ所あり、量が少なくて血液型検査は十分でなく、「おそらく、裏からついたもので、蚤等に原因するのではないかと思われる節がある」。白シャツも小斑点が2カ所あり、人血痕だが、袴下と同様な斑点に見え、血液型検査に十分な量ではなかった。革財布にも、1カ所、けしの実大の人血があったが、「血液型検査の材料としてはその量が少ないので、血液型検査を行わなかった」。 小泉警部補が物的証拠の唯一のものとする国防色ズボンだが、「右脚下半で、前面のほぼ中央およびほぼ後面の下端等に暗褐色ないし黒褐色の小斑点若干を付着し」「人血痕である」「これらはいずれも表面から付着したもので」「いずれも微小で血痕量が少なく、血液型の検査を行うに十分でないから、これを行わなかった」。 ちなみに、「本物件(ズボン)が、私の手もとに送致せられたときには、被検汚斑が赤色のやや太い線で円く囲まれ、その部位を明視せられてあり、かかる汚斑はいずれも血液検査が陰性であるのに反し、赤い印のない、さらに微細な暗褐色ないし黒褐色の小斑点は陽性の血液反応を呈した。しかして、本物件が洗濯せられたとしても、血液反応の陽性を呈した斑点の中には、洗濯を免れたと思われるものがある」とも指摘した。 つまり、鑑定に出す前、警察段階で血痕らしき汚斑を赤丸で囲んだようだが、それらはすべて血痕ではなかった。また、谷口はズボンをつまみ洗いしたというが、残った血痕があったのだ。 ともあれ、犯行後、財田川に捨てたという刺身包丁は捜索したにもかかわらず発見されなかった。裁判になって、谷口は自供を翻して、全面否認である。そこで、「なんとか国防色ズボンの血液型を調べたい」と、小泉証言の直後、2月14日、検察官は次のような鑑定を申請した。 「検察官がさきに証拠品として提出したる別紙物件につき、その血痕付着の有無、ありとせば人血か獣血か、人血なりとせば、その血液型検出のため、鑑定あいなりたく申請します」「同物件については、さきに岡山医科大学教授に鑑定を依頼したるものであるが、本件の重大性にかんがみ、さらに、正確性を期するため、とくに斯界の権威東京大学古畑教授に対し、鑑定方命ぜられんことをぜひとも希望いたします」 裁判所は谷口の意見も求めたが、「自分は、その当時、杉山さんのところへ、この着物を着用して行かないし、また、杉山さんを殺したことはないのであります。だから、そんな血なんかつくことはないのです。ですから、もう一度よく調べてもらいたいのです」などと谷口は答えた。 51年3月2日、裁判所は東京大学医学部法医学教室の古畑種基教授に鑑定を依頼することを決定する。3月26日、古畑に対し、鑑定対象証拠物11点と事件の一件記録を手渡し、「鑑定の経過及び結果は、書面で1カ月内に報告すべきこと」を命じた。しかし、鑑定は1カ月をはるかに超え、51年6月6日付で鑑定書が提出された。この間、谷口の裁判は中断する。 さて、古畑鑑定の証拠物は、被害者のメリヤスシャツ、メリヤスパンツ、胴巻、革財布、谷口の国防色上着、国防色綾織り上着、袴下、国防色ズボン、白シャツ、靴下、革バンドである。黒靴は証拠として提出されず、鑑定の対象とはならなかった。 検査の結果、メリヤスシャツ、メリヤスパンツは、人血が付着し、被害者の血液型と同じ「O型である」。胴巻、革財布については、「現在、血痕がついていることを証明することができない」「ただし、切り取られた部分があるから、その部分には血がついていたのかもしれない」。国防色上着、国防色綾織り上着、革バンド、白シャツ、靴下には、「現在血痕がついていることを証明することはできない」。袴下の裏面には人血が付着し、「A型である」。 そして、焦点の国防色ズボンだが、「前右脚前面の中央よりやや下方および右脚後面の下方に」「ケシの実大の暗褐色の斑痕3ケおよび半米粒大の暗褐色の斑痕1ケが認められ」 「これらの斑痕は、岡山医大の鑑定により人血であると判定せられているが、私の検査においても」「人血であることは確実である。血痕の付着が微量であるので、1つ1つについて検査することは困難であるから、これらを集めて血液型の検査を行った」 「本検体の血痕の付着量はきわめて微量であるため、十分の検査をすることができなかったが」「この血痕の血液型はO型と判定される」と検査結果を述べ、「メリヤスシャツ、メリヤスパンツ、国防色ズボンについている血痕は人血で、その血液型はO型である」などと鑑定した。 この鑑定書が出る前、検察官は、改めて、谷口の血液型検査を古畑にやらせることを請求した。「50年7月の中ごろに、警察署で、私の血液をとりましたのに、また、丸亀で血液をとりましたが、警察署で血液を調べたのはどうしたのですか。血液型だけでしたら、2回も調べなくともよいと思うのですが、私の血液を調べてくださるのでしたら、けっこうなことです。十分に調べてください。お願いいたします」と、谷口も同意した。 裁判所の求めた鑑定事項の「谷口の血液型」に対して、古畑は、「ABO型ではA型、MN式ではMN型、Q式ではQ型である」と鑑定しただけでなく、「参考のため、本件被害者の血液型を検査したが、それはABO型ではO型、MN式ではN型、Q式ではq型である」とつけ加えた。 国防色ズボンの血痕はO型で、杉山と同型であり、検察側にとって、谷口自白を裏付ける鑑定であった。 52年1月18日、第11回公判で、検察官は、次のような論告を行った。 「事件発生より算して約2カ年、起訴以来約1年5カ月、公判の回を重ねること10回約1カ年の長きに及んだ本件も、いよいよ近日中、最後の断が下される段階に立ち至った。この間、あえて複雑煩瑣をかえりみず、実体的真実発見のため、長きに辛苦を重ねられた裁判所に対し、深甚な謝意を表したい。 新聞紙上、『死刑か? 無罪か?』の表題をもって幾度か報道せられ、県下上級学校においては、その有罪無罪につき、学生の机上討論さえ行われたと仄聞する本件の処断如何は、けだし世人注視の的たるを失わないであろう。しかるに、本件の実体は、審理の結果、いまや明々白々、邪はついに正をくだし得ず、正義の勝利は決定的な意義をもつに至ったことを確信する次第である」 「当公判廷における被告の絶対的な否認ならびに各種弁解と、被告を取り巻く親族知己の、これに対応せる作為的な供述等は、まさに白昼の亡霊に等しく、その実質的基礎を欠くものであって、とうてい信用し得べき性質のものでなく、本件の実行者はほかにあり得ず、被告こそまさに真犯人であることを、以下、適法に証拠能力を取得した各種の証拠によって証明し、本件の実体を解明して断罪の資に供したい」 このように前置きし、自白の任意性、信用性を強調する。 「警察ならびに検察における自白は、事実に反するものであると強く主張し、かかる虚偽の自白をなすに至った動機原因として、捜査機関の誘導、強制、暴力、脅迫、供応接待等をあげているのである。しかし、かかる弁解はいずれも事実を歪曲した遁辞であって、とうてい、これを採用することはできない」 「被告の直筆である5回にわたる手記は、いずれも被告が独房において、静思と反省のうちに、みずから、その経験事実および心境を書きつづったものであって、決して、取調官の強制、誘導によるものでない」「本件自白に対する被告の弁解、抗弁は、すべてその理由なく、その任意性、信用性および真実性は十分立証せられたと信ずる」 さらに、「真犯人と断定する特別証拠」として、「国防色ズボンに付着せる血液と被害者の血液が同型である点」とともに、「犯人でなくては、説明し得ない事項」も強調し、「左胸部の刺創(二度突き)」を一例としてあげた。 「外面の傷が1個であるのにかかわらず、内部において、2個の傷口があるということは、いうまでもなく、実際上希有の例外に属するのであるが、被告が神にあらざる限り、真犯人でなくして、どうしてこのような供述ができるのだろうか。被告の自白後約1カ月ぐらい経過して、初めて鑑定書の記載により、これを確認し得た取り調べ警察官の誘導尋問の問題などは、右の事実に徴し、まったく取り上げる余地はないのである。この点は、本件の犯人認定上、もっとも重要なる1点である」 また、「本件犯行当時使用した凶器である刺身包丁が発見できず、かつ、犯行現場に指紋の遺留がなかった事実は、(犯行時にはいていた)靴の未発見とともに、今日、被告側の否認を容易ならしめ、本件無罪主張の有力な武器になっている実情である」と自認しながらも、谷口に死刑を求刑した。 一方、弁護人も最終弁論を行い、無実を主張する。 「被告を犯人として検挙した動機の薄弱性」を真っ先にあげ、地域の風評と強盗傷人事件後、「的確な証拠がないのにかかわらず、被告を真犯人とみなして、一路突入した事実がよくわかるのである。この出発点の誤り(錯覚)が、時のたつにつれ、だんだんひどくなり、自己催眠にかかり、真犯人は谷口なりと思い込んでしまうようになり、ほかの捜査には手を染めず、本件犯罪の創作が始まったのである」 「事は重大である。一歩誤れば、無実の人間が絞首台上に、その生命を絶たれるのである。人権に重大なる関係を有する本件の意義は特に深い。過去において、検挙をあせり、功名心にかせられた結果、誤った検挙がなされ、誤った自供がなされた例は少なくない。恐ろしいことである。七ケ村の若妻殺し事件、近くは府中村の殺人事件のごとく、手近にその例を見るのである。風評、素行を基礎としての検挙の危険なことは、その出発点に誤りがあるからである」。 「被告の自白について」「検挙当時、小泉警部補は、物的証拠なきため、ひたすら被告の自供に活路を見いださんとしたことは、想像にかたくない。あらゆる努力(方法を誤った)がなされた結果、自供調書をとることに成功はしたが、すべては法廷において、根本的に否認されたのである」 「検事は、この被告の自白の性格につき、多数の警察官を証人として申請、その任意性を立証しようとしたのである。思うに、拷問、誘導、強制等の不法手段の圧力により心にもなき自白がなされた場合(現実に社会にあり得るし、また、ある)、その圧力を加えた警察官が法廷において、『自分は強制、拷問等の手段をもって、自供をさせました』というがごとき証言が期待できましょうか。幾十人、証人として出ても、異口同音に強制、誘導等の点は否認することでありましょう。 それは、かれらが警察官という立場にあるからである。かかる証人を幾人喚問してもその真実味はつかみ得ないことは理の当然である」「取り調べ中、手錠をはめ、両足をロープで縛られ、正座をさせられること数時間に及ぶがごとき、その苦痛は、被告がよくしるところであり、心にもなき自白はかくして生まれるのである」 「自白調書の信用を維持するためには少なくとも現場の状況に自供内容が一致していることが必要であるぐらいのことは、警察ならずとも常識人の等しくしるところである。この点に重大な解決のポイントのあることを理解していただきたいのである。この端的な例として、検事の論告の『真犯人と断定する特別証拠』と題するところを、被告に有利に援用したいのである」 「左胸部の刺創について」「果たして、検事のいうところを鵜呑みにして、被告を真犯人と断定してよいのであろうか。否、危険な一線は実にここにあるのである。すなわち、鑑定書の提出は、書類作成上、相当日数を要し、被告の自供の日よりはおくれてなされておる点は、これを認むることはできますけれども、問題は、その両者の日付関係の単なる前後でなくして、その鑑定の基礎となった解剖は、いつ行われたかであります。 その解剖の行われたのは、50年3月1日、すなわち、事件発生の翌日であり、同日の午後4時40分より同日午後8時15分の間に行われたのである。この事実は一件記録により証明されるところである」 「したがって、鑑定書記載の事実は、解剖の日たる3月1日に、執刀者はこれを知悉しているところであり、立会い警察官はもちろんのこと、事件に関与せる警察官の、早くもしれるところであることは、だれしも理解されるところである。換言すれば、警察当局は、かくのごとき状況において、解剖の内容をしり得る、また、しり得べき立場であったのである。われわれは、このことをはっきりしっておかなければならない」 「一事が万事、かくのごとき方法にて、あらゆる被告の自白内容も、その手記なるものも、被告を真犯人とすることに集中してなされた創作以外のなにものでもない」 「凶器ならびに靴について」「被告が真犯人でないために凶器がないのである」「被害現場のようすから見れば、明らかに血痕の付着した靴があるはずである。この証拠品たるべき靴はどうなったのであろうか。これもないのである」 「国防色ズボンの血痕について」「証拠として検事が提出している国防色上着(事件当日、被告が着用していたと検事はいう)には血痕が全然ないのである。あれだけの殺人であるから、相当多量の血痕が上着にも当然付着していたはずであり、この血痕が素人の洗濯だけでなくなっているというのも不思議であり、国防色ズボンも洗ったとすれば、これまた、完全に上着同様血痕はなくなっているはずである。すなわち、問題の血痕もないはずである」 「上着は、果たして血痕がついていたのを洗濯したものかどうか、ズボンも果たして洗濯したのかどうか、上着とズボンを比較して、洗濯の形跡はどうなっているか等の点については、全然説明がなされていない。あの現場のもようからいって、上着もズボンもともに多量の血痕が付着していたはずである。問題の『けし粒』大のもの3ケや4ケの血痕ではないと考えることが常識である。 洗ったということが真実なれば、それは多量の血痕がついていたからでなければならない。(ズボンを)洗濯した場合、あの『けし粒』大のもの3ケぐらいだけが、あの状態において残るということがあり得るであろうか。大きな謎がここにも存在するのである」 「O型とO型だけで事件を処理できるものであれば、次の場合はどうなるでありましょうか。すなわち、甲(A型)という犯人が乙(O型)を殺害した場合、平素素行の悪い丙(A型)が検挙され、強制、誘導のため、心にもない自白をなし、親族、またはみずからの使用していたズボンに、不知の間に、O型の血液が付着していたため、被害者がO型であるから、おまえが犯人だといって処断されてよいのでありましょうか。 真犯人甲は責任を免れ、無実の丙が絞首台にのぼらなければならない恐ろしい結果となるのである。本件はこの恐るべきケースに符合するものであって、物的証拠は1つもないのであり、重大視されなければならない事件である。強盗傷人事件の被害者がもしO型であればいかん」 このように力説し、「警察並びに捜査当局によって、随分念入りに創作された本件も結末に近づき、長期間勾留生活を送った被告の上に、希望の太陽が、裁判の公正とともにさしはじめることを信じ、本弁論を終わることとします」と結んだ。 1カ月後の52年2月20日、高松地裁丸亀支部は、谷口に死刑をいい渡した。 「理由」「被告は、金額1万余円の負債の支払いと小遣い銭に窮し、かつて仲間とともに金1万円を盗んできたことのあるヤミ米ブローカー杉山重雄(当時63年)が相当の金を持っていると考え、同人が1人暮らしで、付近には人家も数軒しかなく、盗みにいくにはかっこうの場所であるとして、同人方で、同人が胴巻を身につけている場合、または胴巻が容易に見つからない場合は、包丁を突きつけて同人を脅迫するか、または、これをいきなり突き殺して金をとろうと決意し、 50年2月27日夜、国防色ズボン等を身につけ、刺身包丁を砥石でとぎすまして、腰にはさみ、翌28日午前2時すぎごろ、杉山重雄方に至り、同人就寝中の枕もとあたりを探したところ、目的の胴巻がなかったので、とっさに同人を殺して金をとろうと思い定め、右手にしていた刺身包丁で熟睡中の杉山の咽喉をめがけて突き刺したが、 被告は、その頭髪を前にたらして、自分の顔を隠していたため、手もとが狂い、包丁は杉山の口のあたりに刺し込まれ、杉山が『うわっ』と声をあげて、その包丁を右手で握ったので、これを手もとに引き、杉山が直ちに上半身を起こし、敷布団の上に座って、声をあげたときには、矢継ぎ早に同人の顔面部等を包丁で突き、さらに同人が逃げようとするところを、頭部めがけて切り下げ、ついで、同人の腰や顔面等を突く等し、同人が間もなく仰向きに倒れるや、 杉山着用の胴巻の中から同人所有の現金1万3000円ぐらいを奪取した後、杉山が生き返らぬようにと、その心臓部と思われるところに包丁を突き刺し、血が出なかったので、包丁を全部抜かずに、刃先の方向をかえて、さらに突き刺して、とどめを刺し、よって杉山をして、そのころ、同所において、被告のなした前記多数の創傷に基づく急性失血により死亡するに至らしめたものである」 裁判所のこの認定は、検察官作成の第4回供述調書、これを裏付ける古畑らの血痕鑑定などによった。 谷口は、即日、高松高裁に控訴する。一審の弁護人が控訴審も担当し、「無罪たるべき人間が極刑たる死刑の宣告を受けることは、ゆゆしき社会問題であり、法律上は基本的人権の大いなる侵害といわねばならない。生か死かの岐路に立つ本件の取り調べは、実に深刻なものがなければならない。にもかかわらず、第一審裁判所は、検事の起訴状丸写しのごとき理由をつけ、簡単に死刑の判決をなしたるは、はなはだ遺憾千万のことと思う」などと控訴趣意書に書いた。 しかし、高松高裁は、56年6月8日、自白は信用できるなどとして、控訴を棄却する。なお、「量刑について、特に再三再四考慮を重ねたけれども、犯行当時被告が若年(19年2月)であったという以外に、本件犯行の動機、殺害の手段、犯行後の被告の行動、特に強盗未遂の前科がある上、本件犯行の後、1カ月をいでずして、強盗傷人を犯したこと等、なんら酌量の余地が認められないから、その年齢、その他諸般の情状を考慮しても原審が極刑を科したのは、相当であり、重きに過ぎるとは認められない」と判断した。 谷口は最高裁に上告する。「死刑はとりかえしのつかない刑であります。最近、死刑廃止の論もやかましく唱えられるようになりました。真犯人といえども死刑にすべきでないとの議論も有識者の間にいわれてまいりました。まして、無実の者が誤って死刑に処せられることはその本人の無念残念はいうに及ばず、それこそが1つの悪であります。本件は、弁護人の見るところ、その悪が一審、二審において誤ってなされたものであります。最高裁判所の良識をもって、真実をつかまれんことを、弁護人は心より期待いたします」。 一審から担当してきた弁護人は、このように上告趣意書で訴えたが、最高裁も、57年1月22日、上告を棄却した。谷口の死刑が確定する。 (2001年5月26日掲載、登場人物は一部仮名、著作権者・サクマ テツ) ニッポンリポート・ファイル一覧 著書[恐るべき証人][検死解剖マニュアル][拳銃天国ニッポン]など |
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