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旅の行程 南米編 そのいち

旅の行程 南米編

【コロンビア】地図

1998年8月30日  サンホセからカルタヘナへ 

Cartagena 標高ほぼ0メートル 人口66万人

 旅を初めて3ヶ月半にしてついに南米大陸に足を踏み入れました。居心地の良さについつい長居をしてしまった中米には、コスタリカで別れを告げ、パナマをパスして一気に飛行機で飛んできました。サンホセから途中、パナマシティーにトランジットして合計5時間の旅。2回の機内食をしっかりと平らた僕たちがげっぷを我慢しつつ降り立った南米の旅の起始点の町はコロンビア北部のカルタヘナという港町です。

 コロンビアは国土の大半が山岳地帯で首都のボゴタなどは標高2650メートルもあるようなところですが、高山病とトラブルを怖れる僕たちは、標高も低くコロンビアにおいては比較的治安がよいとされるこの町から南米の旅を開始することにしたのです。

 今後は、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリの南米大陸の西側を南下していく予定です。

 カルタヘナのお宿は『ヴィエナ』:ダブルベッド、トイレ&シャワー付き一泊1300ペソ(1400円)。すぐ向かいに安くて美味しいベジレストランがあり、部屋にはパソコン仕事をするにはちょうどいいテラスもあったので、僕たちにとってずいぶんと居心地のいいところでした。

1998年9月7日 カルタヘナからメデジンへ 

Medellin 標高1437メートル 人口170万人

 長距離バスに乗ってコロンビア第2の都市メデジンへやって来ました。カルタヘナから12時間のバスの旅は中米で4〜6時間程度の移動に慣れていた僕たちには久々の長時間移動でちょっときつかったですけど、南米大陸でそんなこと言っていてはどこにも行けないようです。がんばらねば。

 メデジンはかつては麻薬カルテルの本拠地としてその名を馳せた町。現在はカルテルは解体しており意外に近代的な洗練された都会といった感じでした。ただし、高級な商店が立ち並ぶメインの通りを片方に一本ずれると、鼻血が出そうないでたちのお姉さま方が昼間から商売に勤しんでおられますし、もう片方にずれると仕事も家も失うものも何もないような方々が通りの真ん中にたむろしラムなどを酌み交わし、その傍らでは親指ほどもありそうなぶっといジョイントをきれいなお姉さんが公然とふかしているといった状況で、南米の奥深さを垣間見たような気がしました。

メデジンでのお宿は『オテル・レジデンシアス・ドリス』:ダブルベッド、トイレ&シャワー共同一泊7000ペソ(730円)可不可なしの宿でした。

1998年9月11日 メデジンからポパヤンへ 

Popayan 標高1760メートル 人口20万  

 メデジンから夜行バスで12時間。カリというコロンビア第3の都市は通り過ぎて、今度はちょっと田舎に行こうということでポパヤンという町にやってきました。碁盤の目にきざまれた町には古い建物もちらちらと混じっていて、どことなくグァテマラで長居した町アンティグアを思い出させます。旅行者が多いのか、安いベジレストランも何軒かあって、僕たちにはありがたいところです。

 お宿は『アメリア』:ダブルベッド、トイレ&シャワー共同一泊8000ペソ(830円)。パッカーの溜まり場で情報交換が容易と聞いてやって来たのですが、実際にはコロンビア人のビジネスホテルというノリで2日で撤退しました。

【エクアドル】地図

1998年9月14日  ポパヤンからオタバロへ 

Otavalo 標高2530メートル 人口2万1千人 

 今日もまた深夜の移動です。ポパヤンからまっすぐ南下して、エクアドルを目指します。首都キトの北に位置するアンデスの高原の村、オタバロまで通関の時間を含めて15時間のバスの旅です。

 コロンビア周辺の国境越えは麻薬問題のからみでチェックが厳しいと聞いて若干緊張していましたが、蓋を開けてみるといつものごとく荷物検査も何もなく、ただパスポートにポンッとはんこを押して終わりでした。ただ、それだけのことをするのに係官がどこから見てもやる気のない状態でむやみに時間がかかったのが少々腹立たしかったですが、それぐらいのことで苛ついていては南米ではやっていけないのだと自らを諫めます。

 早朝に国境を越えオタバロの街に着いたのはお昼前でした。町の中心部でバスを降り、ほどなくして昨夜の移動を開始してからうすうすと感じていたことが確信に変わりました。今回の国境越えは大きな変化でした。国境を越えても旅行者のぼんやりした目にはその変化が明らかに感じ取れないことも間々あるのですが、ここでは見るもの、聞こえるもの、肌に感じるもの、驚くほど多くのものが目新しい刺激として五感を刺激してきます。

 特徴のある民族衣装に身を包んだ男女が目立つようになり、遠くに見える山々は雪をいただき、バスの中に流れる音楽はサルサからフォルクローレに変わり、空気の中に含まれる水分が極端に少なくなり肌に当たる風の質は昨日までとは全く違うものになっています。そうです、「アンデス入ってる」んです。コロンビアもちろんの南米の一国ですが、少なくとも僕たちが見てまわったところは、それまでいた中米の延長上と感じさせるものがほとんどでした。でもここには、僕たちがステレオタイプに頭の中に思い描いていた「南米」が面白いほどに溢れていたのです。

 こうした印象はいわゆる第一印象ですから、例えば僕たちがこの町に一週間滞在すれば、おそらくはまた違った感慨を持つことになるのでしょう。でも、それはともかく、新しく訪れた町が新鮮な印象に溢れているというのはいいものです。少し大げさに言えばそれは旅していることを実感する瞬間であり、さらに言えば頭のなかでくたびれて錆びつきかけた部分がまた滑らかに廻り始めることを予感させるひとときでもあります。

 とりあえず少しばかり浮かれた気分で、「この町には長居することになるかも知れないから」と宿選びはいつもより慎重に行いました。『ホテル イリナ』:2ベッド、シャワートイレ共同、30000スークレ(810円) 値段のわりには部屋は広くて清潔。一階には小ぎれいなカフェがあり、屋上からの眺めも良好で、町の名物の市場にも近い優れものの宿でした。

1998年9月22日 オタバロからキトへ

Quito 標高2850メートル 人口110万人 

 オタバロはほんとに居心地のいいところでした。その気になれば数週間は余裕で過ごせそうでしたが、結局は8日間で出てきました。オタバロを抜け出せたのは秋分の日のおかげでした。キトの町からバスで1時間ほど行ったところにサン・アントニオという村があるのですが、そこは赤道上に位置していて「La Mitad del Mundo(地球の真ん中)」という記念碑があるのです。9月23日の秋分の日には赤道の直上を太陽が通ることになるので、僕たちはその日の正午にそこへ行って、まんま上からのフルパワーの太陽の光を浴びてみたいと考えていました。サン・アントニオ村へ行くのには首都キトからの方がアクセスがしやすく、秋分の日の前日までにはキトに移っておこうと決めていたのです。結局ギリギリの前日までオタバロにぐずぐずと居ましたが、最後には太陽に急かされるようにしてキト行きのバスに乗ったのでした。

 キトでの宿は迷った末に『Hostal Bask』に決めました。2ベッド、シャワー&トイレ共同、一泊4万スークレ(1000円)。床は板張りで、共同のキッチンがあり、その横には暖炉とふかふかのソファーがついた居心地のいいところでした。

1998年10月2日 キトからムイスネへ

Muisne 標高ほぼ0メートル 人口 1万人

 キトには思いのほか長居をしてしまいました。町と宿の居心地がよいのに加えて、インディオを中心としたストライキがあって長距離バスが動かなかったりで、ずるずる状態になっていたのです。しかし、このままではいかんとやっと決意して重い腰を上げました。南の方はまだインディオの紛争が続いていて危ないということで次の目的地はまた赤道を跨いで北に上がったムイスネという小さな島のビーチを選びました。赤道直下にいながらキトやオタバロは標高が高いため全然過ごしやすく、それらしさがありません。暑いのが好きなわけではありませんが、やはりお天道様のまん真下らしい暑さも経験しておくべきだろう、ならばいっそのこと久々にビーチに行って太陽とシーフードを楽しもうと考えたわけです。

 ムイスネまでは2本のバスと小さな渡し船を使って合計9時間の旅。お昼過ぎにキトを出た僕たちがビーチについたのは、夜の9時をまわっていましたが、それでも何とか宿を決め、夕食にありつくことができました。

 宿は『Playa Paraiso」 ダブルベッド、蚊帳つき、シャワートイレ共同(しょっちゅう停電、断水つき)1泊35000スークレ(750円) ちょっとぼろいけど、1階にはカフェも一応あって「何でも勝手にやってちょうだい」というノリのごろごろするには最適な宿でした。

 ちなみに、暑さを求めてやってきた僕たちでしたが、季節が雨期だったためか毎日曇天が続き、暑いどころか涼しいを通り越して寒いこともあるぐらいでした。日中でも風が強いときには長袖のシャツを着て過ごしていました。日本の梅雨だってこんなに気温は下がりません。一体赤道直下だっていうのにどうなっているのでしょうか。

1998年10月9日 ムイスネからキトへ

 多分もう一泊ぐらいしていたら月単位の『沈没』になっていたであろうムイスネでしたが、何とか首都に戻る夜行のバスに乗りました。去り難かった一番の理由は2匹の犬でしたが、「ずっとそこに住めるわけではないのだから、これ以上情をうつすのはよくない」と考え島を離れる決心をしたのです。次の行き先はキトから南へ下ったバニョスというところに決めていたのですが、移動の段取りでキトに一泊することにしました。

1998年10月10日 キトからバニョスへ

Banos 標高 1800メートル 人口 1万3千人

 ムイスネに滞在中、マサヨさんというバニョス在住の日本人女性と仲良くなっていました。他の旅行者からバニョスはいいところだと勧められていたのに加えて彼女が部屋に泊めてくれるということだったので、それでは早速とご厄介になりに行くことにしました。バニョスまではキトからバスで4時間。夕方に僕たちがバニョスの村に着いたとき、マサヨさんは留守でしたが、アパートの親爺が鍵を開けてくれたのをいいことに、留守宅に上がり込んだずいぶん厚かましい僕たちでした。マサヨさんの家には2晩お世話になって、その後はまた普通の宿に移りましたが、そこもずいぶん居心地のいいところでした。Resident Timala 2ベッド、バストイレ共同 自炊可 カメやオウムの動物付き 一泊30000スークレ(約650円) 同宿のデンマーク人、スイス人、スウェーデン人、フランス人、オーストリア人などなど、みんな仲良くなってキッチンではいつも盛り上がってました。

1998年10月18日 バニョスからキトへ

 一度はバニョスまで南下していた僕たちですが、またまた首都キトに戻ってきてしまいました。キトはこれでもう3回目。何やってんの、という周りからの声が聞こえてきそうですが、これには訳が…と言い訳しておきます。今回、キトに戻ったのはガラパゴスへ行くためです。あまりのツアー費の高さに一度は完全に諦めていたガラパゴスですが、バニョスの宿で仲良くなった旅行者からガラパゴスのあまりに素敵な体験談を聞くうち、どうにも我慢がならなくなってしまいました。安くて信用のおける旅行代理店まで紹介されてしまって、衝動的にガラパゴス行きを決意した僕たちは、ツアーを手配すべくまたこの首都に舞い戻ってきたというわけです。さすがに今回は長居はせず、一番早い日程で憧れの島へと向かうことにしました。

1998年10月21日から27日 ガラパゴス諸島

行って来ましたガラパゴス。僕たちの普段の旅のあいだの生活費からするととんでもない出費となった8日間でしたが、確かにその値うちはありました。詳細はこちらで

1998年10月28・29日 キト泊

 ガラパゴスから帰って、まじめに次の移動へと備えました。

1998年10月30日 キトからリオバンバへ

Riobamba 人口9万5千人 標高2750メートル

 キトからバスで4時間半。以前いたバニョスという町の横をかすめるようにして、リオバンバという町まで移動しました。この町へやって来た目的はここから南へ向かう高山鉄道に乗るためです。リオバンバから南のグワヤキル方面へ向かう列車は、途中険しい山岳地帯をスイッチバックを繰り返しながら走り、それを客車の屋根の上に乗って楽しむことができるというので、旅行者のあいだでは人気の高い路線なのです。ミーハーな僕たちは早朝7時の電車の発車時間に合わせて駅のそばに宿をとり、早々にベッドに潜り込みました。

宿は『Hostal Imperila』 4ベッド、シャワー&トイレ共同 1人あたり20000スークレ(約400円)途中のバスで仲良くなったドイツからのひとり旅の女の子マルタと3人で部屋をシェアーしました。

1998年10月31日 リオバンバからクエンカへ

Cuenca 人口25万人 標高2530メートル

 10月の最後の土曜日、復活祭のこの日、僕たちはなかなかひどい目に遭いました。予定では電車とバスを乗り継いで、夕方の4時にはクエンカに着く予定が、実際にクエンカの宿に荷物を降ろしたのは夜の11時半をまわっていました。その訳はというとあの山岳鉄道なのですが、そんなことを回想する間もなく、宿に着くやベッドに倒れ込んだ僕たちでした。

宿は『Sibelia』 2ベッド シャワー&トイレ付き 45000スークレ(約900円)

1998年11月1日 クエンカからビルカバンバへ

Vilcabamba 人口4千人 標高1520メートル

 午前中でクエンカの町をざっと見て歩いた僕たちは、北へ向かうというマルタにも別れを告げ、エクアドル最後の目的地、ビルカバンバへと向かいました。バスを2本乗り継いで約7時間。長寿村として知られるビルカバンバは予想以上にトランキーロ(適当な日本語はありませんが、あえて言うなら平和な、のんびりしたというところでしょうか。ラテンアメリカではこの言葉をpositiveな意味で大変よく使います)なところでした。

宿は『Hidden Garden』 Wベッド+ロフトに2Sベッド シャワー&トイレ共同 60000スークレ(1200円) ちょっとお高いけど、大当たりの宿でした。

【ペルー】地図

1998年11月8日 ビルカバンバからチクラヨへ

Chiclayo 人口 28万人 標高 全然高くない

 超トランキーロ村ビルカバンバにも別れを告げ、ついにエクアドルを抜けてペルーへ向かうことになりました。エクアドルには結局、8週間いました。これは僕たちの今までの旅の中ではひとつの国の最長滞在記録です。まだ南米は2ヶ国め、そんなまとめめいたことを言うのは早計だと知りながらもあえて言ってしまうと、もし1ヶ月ぐらいの休暇が取れて南米をどこか旅してみたいと思っている人がいたら、ぼくはエクアドルを大プッシュしたいと思います。安い物価、かなり良好な治安、シエラ(山岳地帯)、コスタ(太平洋に面した海岸地帯)、オリエンテ(熱帯ジャングル地帯)と変化に富んだ国土、さらに金銭的余裕があればガラパゴスもあり、食べ物は美味しく、人はフレンドリーかつ親切です。浮き世の雑事を忘れてとことんのんびりリラックスしたいとお考えの人ならきっと大満足してもらえると思います。

 ペルー最初の町はチクラヨという太平洋海岸に近い町。ビルカバンバを夜の8時に出発して、途中国境越えを含めてバスを5本乗り継いでやっとこ翌日夕方5時に到着しました。エクアドル−ペルー間の国境は以外になんの問題もなく、冗談を交えながらポンッとはんこを押して終わりでした。

 エクアドルはほとんどシエラ(山岳地帯)にいたのに対し、国境からチクラヨへと至るまではずっとコスタ(海岸地帯)だったこともあってか、ペルーへ入ってからはずいぶんと印象が変わりました。砂漠のような低い灌木が育つだけの荒涼とした土地のあいだにときどき現れる小さな村。日干し煉瓦を重ねただけのシンプルな造りの家が建ち並ぶあいだを、砂埃を巻き上げながら三輪タクシーが走り抜けていきます。人は陽気。エクアドルでも地元の人は素直で親切という印象を受けましたが、こちらの人はより開放的な感じです。バスの乗り換えの時にもむこうから驚くほど親切に案内をしてくれたりで、入国前に聞いていた「ペルー北部の方は人は冷たくてすぐお金の話になる」というのとはずいぶん良い意味で話が違います。バックパッカーのあいだでは北の方は面白くないし物騒なので、飛行機や長距離バスで一気に通り越して南のリマやクスコまで下ってしまうという人も珍しくないようなのですが、実際は来てみないとわからないものですね。

宿は『Sol Radiante』 ダブルベッド シャワー&トイレ付き 一泊35ソル(約1400円) ちょっと高いですが、ペルーに入って少々びびりモードのふたりはセキュリティー重視で宿を選びました。

1998年11月11日 チクラヨからトゥルヒージョへ

Trujillo 人口 75万人 標高 全然高くない

 チクラヨでトゥクメとシパンの旧インカの遺跡を見学したあと、早速、次の目的地トゥルヒージョまで移動です。実は11月の後半までにチリの首都サンティアゴに入らなければならなくなったので、行程を急いでいるのです。サンティアゴにぼく Chanの大学病院勤務時代の友人がいるのですが、その彼が12月の1日から日本に3ヶ月の短期留学に出てしまうというので、その彼に会おうと慌てているのです。サンティアゴに行ったあとはチリ・アルゼンチン南部のパタゴニア地方をそのベストシーズン(12月〜2月)にキャンプしながらまわって、そのあともう一度北上してペルー南部&ボリビアをゆっくり旅しようというのが僕たちの計画です。ですから、ペルーの首都のリマまでペルー北部の『Mustポイント』を足早に見てまわって、11月の20日ぐらいにはリマから一気にサンティアゴまで、国際バスで南下しようと考えているわけです。

 トゥルヒージョも砂漠に浮かんだオアシスの大規模版といった感じの町です。かつての城壁都市の面影を残した古い街並みはそれなりに情緒もありますが、照りつける太陽と著しく乾燥した空気とのあいだにミスマッチな感じも漂い、なんだか不思議な町でした。

 ここではやはり旧インカの遺跡見学と「なんでこんな町にこんなに美味しいものが…」と訝ってしまうほど美味なケーキと、そして激辛激ウマのセビチェ(白身魚のマリネです)を楽しみました。

宿は『Hostal el Ensueno』 ダブルベッド シャワートイレ付き(お湯はほとんど出ず) テント感覚の風通し良好の部屋 一泊20ソル(約800円)でした。 

1998年11月13日 トゥルヒージョからワラスへ

Huaraz 人口 8万人 標高 3091メートル

 コスタを離れてシエラにやって来ました。ワラスはアンデス山脈の6000メートル級の山へのベースキャンプとなる村です。といっても、僕たちはそんな高い山へは登りません。根性のないお気楽旅行者は町を取り囲むようにしてそびえる険しいピークに雪をいただいた山々を「なかなかええ感じやん」と眺めて楽しむだけです。

宿は『Hostal Galaxia』 3シングルベッド トイレシャワー共同 屋上からの眺め良好 一泊25ソル(約1000円) この宿では久々に日本人旅行者と出会って、なにかと話が合うカップルだったのでずいぶんと日本の想い出話などで盛り上がっていました。

1998年11月16日 ワラスからリマへ

Lima 人口 680万人 標高 ほとんど高くない

 ワラスで高山地帯ののんびりした空気を楽しんだあと、いよいよリマにやってきました。ここはなにかと評判のよくない首都なので、久々の要警戒地帯突入ということで少々緊張気味です。ワラスを夜の10時にスタートしたバスがリマに着いたのは朝の4時半。6時到着予定といったのに、早く着かなくてよいときに限ってめちゃくちゃ飛ばして早く着いてしまうのがこちらのバスの困ったところです。その時間から安宿の門をたたくわけにもいかず、仕方なくバスターミナルの中で荷物をかかえたままあたりが明るくなるのを待ちました。

 リマで僕たちが選んだ宿は『Pension Ibarra』 シングルベッド×2 トイレシャワー共同 キッチンあり 一泊25ソル(約1000円)です。この宿の一番のウリは部屋の窓からの眺め。高層ビルのマンションの一室を間貸しした部屋は、地上16階にあり安宿で設備はたいしたことないものの窓際に立って眼前に広がる景色を眺めているときはちょっとした高級ホテルに泊まっているような錯覚を味わうことができたのです。ただし、この首都の喧噪は相当なもので、けたたましいクラクションと排ガスをまき散らしながら通りに埋め尽くす車の騒音は夜遅くまで16階の僕たちの寝ている部屋にもかなりの音量で聞こえてきましたし、朝起きたときにはおそらくは排ガスによるものと思われる喉の痛みに悩まされたものです。

 また、この宿でもまた複数の日本人の旅行者の方と出会いました。ペルーは南米にしては日本人の旅行者が多いところのようです。

【チリ】

1998年11月23日 リマからサンティアゴへ

Santiago 人口 500万人 標高 600メートル

 ペルーで久々の日本人モードを楽しんだあと、僕たちは一気にチリの首都サンティアゴまで移動しました。旅のルートとしては、リマのあとは南米大陸観光の中でもハイライトのひとつと言えるペルー南部のマチュピチュやティティカカ湖を見てボリビアをゆっくり回って、それからチリの方に下りていくというのが一般的なのですが、僕たちはそれらの『美味しい』部分を全部パスして一気に南米大陸の太平洋岸を南下しました。大陸最南端のパタゴニア地方をそのベストシーズン(12〜2月)で旅したいのとサンティアゴで友達に会いたいのとで、少々変則的な旅の行程を選択したのです。

 リマからサンティアゴまでの移動手段については悩んだ結果、国際バスを使うことにしました。飛行機を使うことも考えたのですが、やはり値段がお高いのとできるだけ陸路で移動したいという考えから、所要時間2日と6時間と腰痛持ちのぼくには聞いただけでぞっとするような長時間移動でしたが『地べた』で行くことにしました。ちなみにお値段の方は飛行機の場合だいたい160ドルぐらい、バスだとその半分以下の75ドルです。

 砂漠の中をひた走るバスに揺られながら、なんとか歩行にも支障をきたさないような状態でサンティアゴに着いた僕たちは、早速、ぼくの友人のフェリペのお家に居候に押しかけました。アップタウンの高級住宅街の中にある彼のコンドミディアムのゲストルームはプライベートバス付き、「隣のAVルームも好きなように使っていいよ」の素敵なところでした。

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