Nov/20/2004/増結

★Keyを告げられたら、、、 ★ちょっと歴史? ★バンマスと議論の果てに ★怪しい、、の巻 フリージャズ初体験 ★お寺でジャズフェス!? ★突然の第五次接近遭遇=Here's That Rainy Day ★作曲しましょう★忘れられない音楽仲間達-その1★リーダーバンドで初ツアー1981春 ★忘れられない音楽仲間達-その2
一体何年この体験記の更新を怠っているのだッ!!、、、というお叱りのメールにようやくお応えする今回。まずは東京に出て来た頃の記憶を徒然なるままに、、、
何だかんだと岡山の山の中の生活を無事終了(つまり卒業)したヴァイビストはS教授の紹介で東京近郊のハコに潜り込む事になった。卒業してすぐに仕事が入る音楽の世界ではないし、まして地方からポンと飛び出してとなると何か取っ掛かりがないと困難だった。ハコとは毎晩同じメンバーで決まった時間に演奏する仕事場の事を言う。今では殆ど見かけなくなったが、一部のライブハウスには同じような感じの店もあるので理解出来るかもしれない。毎晩演奏して月々のギャラが貰えて天国のような場所と思うかも知れないが、現実はそんなに甘くはない。何がって、、それは演奏する音楽に対してのストレスというとても大きな問題だった。しかし、そんな事とは知らずホイホイと出て来たヴァイビストは何をやっていたか、、、、
家財道具を積んだトロンボーン専攻のN川君とH頭君が運転するレンタカーと楽器を積んだ僕の車が、けだるい陽射しに照らされる渋谷の渋滞に巻き込まれていたのは、津山を出てから一晩過ぎた頃だった。カーナビなんか無い時代の事、都心環状線を2周したのは言うまでもない。パズルのような首都高速にさっき地方から飛び出して来た者がかなうわけがない。ぐるりん、ぐるりんと迷いながらも新居に到着した頃にはすっかり太陽が西に傾いていた。あたふたと家財道具を部屋に押し込んで近くの鰻屋で乾杯したのはもう午後9時を過ぎていた。しばしバカ話で盛り上がった後、宿に向かった彼等を見送り1人雑然とした部屋に戻った時にはさすがに不安が込み上げて来て寂しくなった。頬を伝う並だ、いや、波だ、ウン?並みだ、もとい、浪だ、何だ? なみだ、そう、涙(せっかくいいトコろだったのに、この米国生まれのパソコンは変換というものを知らない)。ジャズでも聴いて心を嫌そう、うん? イヤそう、コラ! 厭そう、ど−する? 癒そう、よし!、癒そうとするがまだレコードの梱包を溶いて、何? 説いて、くどいてどーする! 説いて、説明はイラン! いやいらん! 融いて、違う! 解いて、そう、解いてない。布うーっ疲れ田!?!? ふうーっ、疲れた。。。そんなわけで瀟々、うん?少将、誰がじゃ! 少々センチメンタルな気分で過ごしたこの寄るの、違う! 因る、はァ? 夜の事はよく覚えている。(頼むから先に行かせてくれ〜●ac君)
が、。しかし。
一晩練る、もとい、寝るとコロっと忘れるこの性格ですから、早速翌日から行動に入った。東京で最初にやった事。何だと思います? 電話の加入権を買う事?まま、それもあり(最近それを加入者が減ったからチャラにしようなんてーヤカラがいますが、キチンと返却しろ〜!)。公共料金の開設?それも、ままあり。でも正解は深夜のドライブ。はぁ?って思うかもしれないが、マジっすよ。
ハコでの演奏が午後11時に終わる。するとそのまま帰ればいいんだけど、そこから首都高めぐりが始まる。なぜ?理由は簡単、まず東京の位置関係を覚える事。今までは電車で来てフラフラとレッスンの帰りに新宿とか渋谷とかでジャズ喫茶やライブハウスを巡ってたんだけど、いざ住むとなると楽器があるから車移動が原則になる。ならばまず道を知らなきゃ何にも出来ないという訳で深夜の首都高巡りが始まったわけ。それと日中の渋滞は出て来た途端に洗礼を受けたので空いてる深夜が効率もよかった。とにかく都心環状線に乗ってターゲットを決める。ある時は新宿、ある時は銀座、ある時は横浜、、なんて具合に。そしてそれが慣れたら今度は下道でターゲットを目指す。今でもよく覚えているのは靖国通りを走っていて新宿の「J」を見掛けた時だ。当時(正確には津山時代)オールナイトニッポンではタモリがDJを担当する日があり「ハナモゲラ語」とかで盛り上がるとよく出て来た店が「J」だった。ピットインとかはレッスンで通っていた頃に何度も電車で行ったので馴染みがあったが、ちょっと駅から離れた店はこの時にいろいろと場所を確認したものです。そんなこんなで、ドライブしながらの地理学習が最初にやった事なのでした。
今ではカーナビがあるし、そんな事する必要もないけど、深夜の東京は何かゾクゾクするものがあったなぁ、、。渋滞はごめんだけど。
毎晩演奏すると言っても、曲は膨大な数ほどある。スタンダードと呼ばれるものを演奏する時にベテランはメモリ−(暗譜)でスラスラ演奏するが、駆け出しのヴァイビストはメモリ−不足。従ってメモ帳というものを毎晩コツコツと写しては作る。今夜演奏して知らなかった曲があったらまた写す。それの繰り返し。書くと覚えると言いますが、あれは限界があります。書いても書いてもまだまだ曲があるから追い付かない。一度やった曲はkeyと曲名を言われたら出なきゃならない。バンマスはギターのFさん。「次はナントカ。ほら、この間やったやつ、keyはEb」でジャーンと始まるから譜面を探してる暇がない。時には「えーっと、曲名なんだッケ、これ、これ」でジャーン。もうコーなると譜面探すのは放棄してやるしかない。時には優しいベースのS田君やK川さんがソッとメモ帳を渡してくれるんだけど、時々みんな怪しい時もある(笑)。もうコーなると耳はダンボ状態でメロディーを聞き取りながらkeyの中で循環するコードの目安と転調の予測をしながら弾くしかない。テーマの時に「あそこは当った」「ここは外れた」などと不謹慎な博打のようなものだ。時にはソロの先頭になる事もあるからバックの音を必死で聴いてやるしかないし。その内に慣れて来ると曲名を告げずkeyも告げずイントロが始まるようになる。が、何となくスタンダードの場合はその仕組みが把握出来たから慣れとは不思議なものだ。お陰で曲名は知らないが「あ、この曲やった事がある」というものが随分ある。でも油断すると途中の転調から違う曲に行ってしまうから始末が悪い。やはりちゃんと譜面に書こう、と決心したヴァイビスト。
このバンドでピアノとキーボードを弾いていた小林さんという方は実はヴァイビストで、昼間は神田で喫茶店を経営していた。年齢は当時50歳前後だったと思う。僕も交替でピアノを弾いたりヴァイブを弾いたりしたので演奏を聴く機会があった。小林さんによれば昔はハコにヴァイビストがたくさんいたそうだ。なぜそんなにヴァイビストがいたのかを聞いたら理由が明解だったので書いておきましょう。当時(と、言っても僕のじゃなくて小林さん達が演奏を始めた頃)ジョージ・シアリングのグループのサウンドがハコで大受けだったらしくギターとヴァイブがユニゾンでメロディーを演奏しピアノがブロック・コード(メロディーに対しての内声付け)を挿入するスタイルが多かった事。そしてもっと面白かったのが、シアリング・ブームの前まではピアノがたいへん高価で店が所有する余裕が無かったがヴァイブなら値段も知れてたので備品として設置した店が多かった事。それがそのままシアリング・ブームとなってちょっとした店では必ずヴァイブがいたらしい。この当時(今度は僕の当時)の50歳代以上のキ−ボ−ド奏者には元ヴァイビストがたくさんいらっしゃったようだ。なるほど経済的な理由ってぇのがあったんですねぇ。しかし、その後ピアノがどの店にも入るようになって、ピアノがあれば鍵盤は他にはいらんな、と、これまたギャラの経済的な理由でヴァイブが減っていったという歴史もあるのです。ううん。。。経済的な理由に左右されるんですかぁ、、、繁栄と衰退にそれが大きく影響していたとは、、、、それじゃいけませんね。存在価値を高めるように頑張らねば。
数カ月が過ぎ、修行の場として飛び込んだ所だったけど、大体の事を覚えたヴァイビストは書いたメモ帳の曲で少しだけ自分が聞いているレコードとサウンドが違う事に気付きバンマスギタ−F氏に「ここはこうしませんか?」と生意気にも意見するようになっていた。この頃ハコの社長(実は元ドラマー)の紹介でHさんというアレンジャーの方に昼間はコードセオリーとアレンジを習っていたので実践したかったのだと思う。また夜な夜なビル・エヴァンスやキース・ジャレットの曲をコピーしては持って行き「今日はこれをやりましょうよ」とか、、。今考えるとフトドキモノである。この頃は深夜ドライブもする必要がなくなったので電車で通っていたヴァイビストはある時バンマスに呼ばれた「今日帰りに送ってくから少し話をしよう」。帰りの車の中でバンマスと2時間も論議した。「you(バンマスの口癖)がやりたい曲は一般には受けんよ。そういうのは自分で作った場所でやらなきゃ。あそこはそういう場所ではない」「どうしてですか?ちゃんとやる事はクレームが来ないようにやっているのだからいいじゃ無いですか」、、、今考えると反省しきり、若気のいたりである。翌日も、その翌日も帰りの論議は続き、心配したバンマスのお嬢さんが向えに来たほどだ。「お互いにひと月様子を見よう」というバンマスの言葉でその日は終えるものの、また翌日になると休憩時間から同じ論議の繰り返しになる。クビにされなかっただけでも感謝だと今なら思えるんだけど、その時は何か必死だったからなぁ。。つまりは「なぜこの曲をやってはいけないのか」という理由をトクトクと説明してくれたにも関わらず僕は納得しなかったようだ。でも今思うと、そんなに親身になってくれるバンマスなんてそういるもんじゃない。そこでいろんな話しをした事はいつまでも忘れないでいる。
そんな状態の中、ベースのトラで来た人に「おもしろい曲やってんねぇ。今度遊びにおいでよ」と声が掛かった。ジャムセッションだった。そうか、ハコでやれない事はこういう場所で解消出来るんだ。そう思ってその場にいたドラムのM浦さんに声を掛けたら「いい人紹介しますよ」と言って電話番号をもらった。ギターのA井君と言う人だつた。後日ドラムの人とベースのO平君を紹介してもらい、一度何処かでやろう、という事になり高円寺のスタジオを借りてリハーサルをやる事に。その時に持ち寄った曲はバラバラでスタッフの曲やらオリジナルやらカーラ・ブレイの曲(これは僕/バレばれ?笑)やらでまとまりは無かったが一つのやり方が見つかった気がした。感心したのはギターのA井君の曲でそのサンプル音源を自分で多重録音したものを聞かせてくれた。当時リズムマシーンはまだまだ高価で一般には普及していなかったのにベ−ス(実はギターの低弦を使っていた)ドラム(これが家財道具でドラムの発音とおぼしきものを集めて合成していた)にシンセ。正に発想が柔軟だから出来る技。本当に感心させられた。その内にベースのO平君から「月末の週末に茨城県の鹿島という町でライブをするから来ないか?」と誘われて100kmの遠征&徹夜帰還を何度も繰り返す。何となくいろんな人と関わる内に電話で呼ばれる事が増えるようになった。ハコという中でやれない事、、、、それこそが自分がやりたい事だった。そう思った途端に同年輩で同じような事を考えているミュージシャン駆け出しが東京にはゴマンと居る事がわかった。そうだよなぁ、そりゃそうだよ。と、バンマスの言葉を思い出した。
そして、一ヶ月後、バンマスにこう切り出した。「これからはフリーでやって行きます。お世話になりました。」その時Fバンマスが言ってくれた言葉はわすれていない。「そうか、いつかはそうなると思ってたよ。いや、俺もね、youにいろいろと刺激されて最近のジャズを聞き始めたんだ。この数カ月は久し振りに楽しかったよ」。
その後Fバンマスとはお嬢さんがジャズ方面に進みたいとの事で何度か連絡で交流があったものの、留学後は御無沙汰になってしまった。
明大前に「キッド・アイラック・ホール」というのがあった。喜怒哀楽に起因する名前だったように思う。この頃知り合っていたドラマーの石田氏が誘ってくれたコンサートがココであった。Iさんという前衛音楽のピアニストとYさんというフリージャズで著名なベーシスト、クラシックのヴァイオリンK妖艶女史、パーカッションとドラムが石田氏、そしてパフォーマー氏と僕だった。フリージャズというのはやった事が無かったのでとても興味があったんだ。打ち合わせに伺ったIさんのマンションでまずぶっ飛んだ。「これを僕がエンドレスにして流しますから、その中で発言して下さい」とポータブル・テレコにエンドレステープを仕込んで発音を増幅させて行く。「ふぬぬ。。。」何だかよくわからないが、感心するヴァイビスト。「発言の時間はこれが途絶えるまで」。なるほど。何となく、、。打ち合わせはそれだけで後は雑談となったが、とにかくハプニングだ、というような事をIさんは求めていた。現代音楽での即興は学生時代に何度か経験があるがジャズでは初めてだ。何が違うんだろう?と冷静かつ期待に包まれて本番を向えた。
ステージが始まるやいなや、例のエンドレステープがあちこちで増幅されている。うぬぬ、怪しい感じだゾ! 照明が落とされてYさんのベースがオドロオドロしく登場する。ううぬ、これまた怪しいゾ。妖艶なK女史のヴァイオリンがベースに絡む。ウウン、エキゾチック、、。そこでヴァイブをポロン、と、すると石田氏のドラムがグヲン・ガッシャーンと反応する。ピアノのI氏は時々「っハァ!」とか言って大見得を切ったりしている。そこにパフォーマンス氏が全身タイツ姿で登場し何やら舞いを始める。ううん、、益々怪しくなって来た。ガッポン、ぐを、グァッシャーン、ポコポコ、ヒューン、「ハラモケレメタヤリーノ、サバラサバラ、ヘテカナラシトゥワ、ッボ、キャーラメレシイテータ!」グァッシャーン、ポコポコ、ヒューン、「ハラモケレメタヤリーノ、サバラサバラ、ヘテカナラシトゥワ〜!」ガッポン、ぐを、、、「サラ、タンバラメケタリノソー!」ポケポケ、コロ。ギュアーン、「ヘレ、キッパジンバラサンタメレケ〜!」グルグル、ギョワ〜ン、シュシュッ、キーン「サン、サバレキ!」グワ〜ン、キュルキュポケッ、ズォ〜〜ズォ〜〜、「サン、サバレキ!」グルグル、ギョワ〜ン、シュシュッ、・・・何だかわからんが、演奏者も観客も妙に興奮して来たゾ・・・・「サン、サバレキ!」グルグル、ギョワ〜ン、シュシュッ、「サン・タバレキ・メケレソ・フルッバ〜〜〜!」グシャン、ガラガラ、チーン、ポロン、モキッ・・・いよいよクライマックスか?・・・シャーンシャーンシャーンシャーン、ギューギューギューギュー、キーコキーコキーコキーコ、ポローンポローンポローンボローン、「グゥア〜〜〜〜〜」・・・と叫びながらパフォーマンス氏はステージ中央に備えられた白いスクリーンな向けて赤いスプレーを噴射している・・・・「サラ・サンバラ・タバレキメケレツ、サラ・サンバラ・タバレキメケレツ、サラ・サンバラ・タバレキメケレツ、サラ・サンバラ・タバレキメケレツゥ〜〜〜〜」・・・シューという最後の一滴まで噴射しその場に倒れこむパフォーマンス氏。それを見てベースを持ち弾きながらウロウロとステージを歩き出すY氏、「うぐぐぐぐぅ・・」と低い唸り声を発するI氏、、、、、、最後の瞬間に妖艶ヴァイオリンのk女史が思いっきり不協和音でギュ、ギュッギュ〜〜〜〜、、、、でエンド。一同礼をしステージは終わり熱狂的な拍手に包まれる。今まででやった一番怪しい音楽だったかもしれない。。。。。いや、待てよ、そう言えば、ありとあらゆる楽器を並べて即興でやった高校音楽科のウィークデイ・コンサートというものがあったか、、、、、。いや、しかし、、、スプレー噴射にまでは至らなかったからなぁ。。。
ううん。。。。。流石は東京。好みもいろいろ、音楽もいろいろだぁ。。
終わってから1人ステージの中央で何やらゴシゴシやってるI氏がいる。どうしたんですか? 「いや、ちょっとね、このラッカーがステージにベットリはまずいのよ〜」とシンナーを使って剥がすのに躍起。何かその姿が当時のTV「突然ガバチョ」で鶴瓶が扮するエプロンおばさんっぽくて、とっても怪しく印象に残っている。東京は面白くも怪しい街だ。
この頃になると初のリーダーバンドを作って東京近郊のライブハウスに出演するようになっていた。
第一期と言ってもいいこの頃のバンドのメンバーは、赤松(vib)須藤弘児(sax)高橋正(b)石田和也、または鈴鹿博昭(ds)。最年少リーダーの僕は23歳でメンバーは皆30代。僕よりは一回り上の世代だった。それまでにいろんな人とセッションやリハーサルをやって落ち着いたら自分が一番弱輩者になってしまったようで、ジャズの中でも当時僕が目指していた音楽が同年輩よりも少し上に理解されやすかったからだろう。なんせ当時はフュージョン・ブームの最盛期の事だから若いミュージシャンは皆そっちを向いていてコンテンポラリーとかECMとかモダンジャズを独自の語法でやろう、な〜んて天の邪鬼にはなかなか出会えなかったし、僕の至らぬ点(演奏を含めて)をフォローしてくれるだけの余裕が無かった。またジャズを聴き始めた時期が少々早かったので聴く音楽の趣向というものがこの世代の人達と近かったのかもしれない。ジャズってある意味、その時代の空気を切り取って音に詰め込んでいるような部分もあるから。
最もお世話になったのが府中にあった「ナチャラル・ボックス」。後に店は隣にあったクリーニング屋(いつも僕らが店の前に駐車するので「由々しき光線」をグリグリ発していた、、)を吸収し増築されオーナーが代わって「バベル2nd」と呼ばれるようになった。バベルの時代も通して当時から演奏活動をしているミュージシャンにとっては誰もが懐かしい店だと思う。「ナチュラル・ボックス」の時代を知っているのはもう少数派かもしれない。出演の切っ掛けはドラムのS氏の紹介だったように思う。しかし、このお店、ホント〜にお客さんが入らなかった。時にはメンバーの数と同じくらいで、開き直ったバベルのマスターは「月間客入りワースト・ランキング」(笑)を付けていたほどだ。でも、そんな状態でも好きな事をやらせてくれて他の店の売り上げを注ぎ込んでまで僕らの活動の場を守り続けてくれた。当時のジャズメンは武士は喰わねど高楊枝、、的なところが災いしてたようにも思う。スミマセン。。
で、ちょっといろいろな怪しい音楽事務所からの勧誘に巻き込まれそうになった時に、偶然にもレコーディング(デモ)で行った場所が茨城県のあるお寺だった。録音してくれる放送局のエンジニア氏と共に三日間泊まり込む事に。しかし怪しいマネージャー氏が席を外した隙に、住職(ジャズ和尚として高名な)O氏が「あのですねぇ、ちょっといいですか?」と怪しいマネ−ジャー氏がなぜココに来るようになったかなどを話してくれた。ちょうど僕らも彼は怪しいから手を切ろうと考えていたのだ。「じゃあ、決まりですね」との一言で「脱出作戦」は決行された。のちにO氏と話した時に「てっきり怪しいM氏の仲間だと思ってたんですよ。良かった、仲間じゃなくて」と。O氏は僕らの演奏を聞き、録音エンジニア氏の協力の元、地元の放送局やO氏が毎月出筆していた雑誌のジャズコラムに紹介までして下さった。本当に感謝。
で、ある時、電話が鳴って出たら柔らかいO氏の声がした。「お元気ですか? 実はですねぇ、毎年夏にウチで“ジャズと説法”という二日間のジャズイベントをやってまして、毎年沢山の方が泊まり込みで来られるんですよ。それで相談ですが今年の夏にそこで演奏してみませんか? 折角お知り合いになったのだから、どうです?」。勿論断るはずが無い。即刻「ハイ」と返事をした。後日わかった事だが、この時にO氏から「ドラムの上手い中学生がいるんですよ。ジャムセッションで一緒にやってみませんか?」と薦められて共演したのが小山太郎君だった。また、太郎君と同級生で現在北関東で精力的に活躍しているヴァイビスト小林啓一君ともこの時に出会っている。昨年二人に会ってこの話しになった時、「その時のカセットテープが残ってますよ」と小林氏。太郎君も「ウチも」。もぅ、今さらカンベンしてよーーー若気のいたりは空中に消えてるはずだゾーっ(汗)、と鮮明にその時の事を思い出してしまった。。。
で、その時のジャズイベント「サマ−・ナイト・イン寺子屋」のお話、をする前に、僕としてはかなり大きい事件があった。それを先に書く事にしよう。いや、これを書かんとメールでクレームの嵐が、、、、、(大汗)
いよいよと言うか、遂にと言うか、その時は突然やって来た。1981年2月下旬の事だった。この頃になると高校音楽科後輩のT山が桐朋学園に入り何かと交流を再開していた。マリンバの師匠である安倍圭子先生から突然の知らせが入ったのはそんな時だった。「あら、赤松さんお元気? ところで3月某日の午後はお時間あるかしら?」「はい。空いていま〜す」「そう、あら、良かった。それではね、その日の午後にゲイリーが家に来る事になったのでいらっしゃいませんか?」「ふへぇ?、は」思わず聞き逃しそうになったのでもう一度復唱する事に、、「ゲ、ゲイリーがですか?」俄然コーフンして来たヴァイビストは、思いっきりカミながら「ぜし、行かせていたらぎましゅ、、ます。マス!」。実はこの数日前に芝の郵便貯金ホールでチック・コリアとゲイリー・バートンのミラクル・デュオを堪能していたところだった。このタイミングを逃してなるものか。と、3月某日は早起きをし準備体操をし(何のや!?)一路安倍先生宅を目指す。途中T山他桐朋の面々、留学生と地下鉄の駅近くで待ち合わせる。レッスンで通い慣れた道、細い道を何を話しながら歩いたのかは覚えていないが、安倍邸が近付くにつれ、心拍数はアッチェルランドしたのは言うまでも無い。ただでさえマリンバのレッスンで高校時代この安倍邸が近付くと緊張したものだが、今回は二乗、いや十乗。
コンコン、と第五次接近遭遇のドアをノックして入ったレッスン室(すでにこのレッスン室と言うだけで緊張してしまうものだ)に入ると、既にゲイリ−氏は歓談していた。先生が私のレッスン生達です、と紹介してくれてニコリとするゲイリー氏。ごくごくプライベートな集まりだったにも関わらず、この時の模様はアメリカの雑誌「パーカッション」に同行した留学生のレポートとして写真入りで載っている。「世界の二大マレット奏者(ケイコ・アベとゲイリー・バートン)が東京で再会」というような記事になった本を後日留学生から貰った(ちなみにこの号の裏表紙はMusserの広告で被写体はダブルイメージ)。ゲイリ−氏と一緒に写った最初の記念すべき写真でもある。ゲイリー氏は簡単なヴァイブのレクチャーとソロ演奏(Blame It On My Youth)を僕らにプレゼントしてくれた。そうそう、この時、安倍邸の飼い犬がゲイリーのヴァイブに合わせてやたらと遠吠えをしていたっけなぁ。犬の波長とヴァイブの音色は犬に郷愁を呼び起すのだろうか、、、でもそんな事が納得出来るような郷愁に満ちたソロだった。ううん、どうすればこの楽器でこんなに優しさがかもし出せるんだろう。。。この時の同席者には帰国直後のマリンビスト吉岡氏もいた。氏も同じ安倍門下である。
さて、同じ時間帯に共演者のチック・コリア氏はどうしていたかと言うと、、、NHKが録画してデュオのコンサートを放映する為の編集作業に立ち会っているそうだ。ゲイリー氏曰く「僕はチックと全然性格が異なりドメスティックなのでそういうシリアスな現場には立ち入らないんだ。だからオフの今日はココで大いに楽しむ事が出来る」(笑)。
ひとしきりのヴァイブレクチャーが終わって皆でランチを食べながら歓談しましょうという事なった。直接話す最初のチャンスだ。そこで初めてゲイリーに向けた質問は次の通りだった。
「僕は子供の頃から貴方の演奏を聞き、そして今もヴァイブを演奏しています。今日はちょうどわからない事があって質問したいのですが良いですか?」。ニコリとゲイリー氏。「昨夜も共演者とこの議論になりました。スタンダード曲として貴方も演奏している“Here's That Rainy Day”の最初の8小節ですが、長調で演奏する人と短調で演奏する人がいます。私は原曲を知らないのですが、貴方がステファン・グラッペリーさんやスタン・ゲッツさんと演奏しているのは短調ですね? 宜しければその理由と冒頭の部分をどのようなコードで演奏しているのか教えて下さい」。
凄いペラペラじゃん英語ってこの時は留学生君に助けを借りながらだったから、そりゃ完璧でしょう(笑)
曰く「曲は時と場合によってムードを演出する事が必要になるし、この曲にはベースによるカウンターラインがとてもフィットしていると感じた。ミュージカルではいろんなシーンに挿入歌が入っていて、明るいシーンの時は長調、しっとりとしたシーンでは短調として同じ旋律が使われる事がある。僕は後者をこの曲の印象として抱いている。コードはね、、」と紙を取り出し次のように書いてくれた。
|| Fm C7/E | Ab7/Db D7 | DbMaj7 Cm7 | Bbm7 Bbm7/Ab | Gm7(b5) | C7(b9) | FMaj7 | Cm7 F7 ||
ニコリと笑って「OK?」と渡してくれた紙を大切に鞄へしまい「ありがとうございました」と最大の感謝を述べた。69年にアルバムを聴き始め、70年には影響されてヴァイブを始め、その後高校では音楽科に進みマリンバを始め、74年には大阪サンケイホールで初生を体験し、そして遂にこの時はやって来た。その間の12年間。実は楽器を始めた当初から「ヴァイブをやっていればいつかゲイリーに会えるチャンスが来るだろう」とデジャヴの如く密かに思っていたんだ。東京へ出て来たのもそういうチャンスに遭遇する事を考えての事だった。ああ、感動。人生最大の感動。東京進出バンザイ! めでたし、めでたし。。。
ってオイオイ、ココで終わったらそりゃ感動だろうけどバークリーに行った事とか、もっと他にあるでしょ、って?
うん。そうなんです。その後、運命の糸は少々からみながらも、着実にコマを進めるが如くにゲイリー氏との次なる遭遇に向かうのでした。しかし、この時は自分がバークリーで氏に習う事などこれっぽっちも予測する事なく、とにかく会えた事でバンバンザ〜イ!とかなりミーハーに軽やかに帰って行くのでありました。ホント、それは何処でどうなるか予測できるものでは無いから、人生は、、、、、、やはり何があっても楽しいのです。だからいつでも思いっきり自由に翔けてみましょう!
[2004年10月27日記]
ちょっと前後するかもしれないけど、この頃から一つ決めて実践した事がある。それは作曲。それまでに自作曲というものはあるにはあったが人前で演奏したのは高校の頃と大学の頃に少しだけ。あとはやりたいと思う人の曲やスタンダードをコピー(実は演奏する為に譜面が無かったから仕方なくという理由もあった)したりアレンジしたりが主だった。この頃深夜帰宅してヘッドフォンを付けてピアノに向かうのが楽しみになり、そこでオリジナルというものを作ってみようと思い始めた。最初は小説家が「この文章は“は”で繋ぐか“が”で繋ぐか、ううん、これは如何に?」という調子でなかなか進まなかったが何日も一つの部分を「ううん。。」と考えるよりも、その日に感じた事を書いてみようと発想の転換に至ったところ不完全でも何かメモのような形でメロディーやコードを書き残す事が始まった。曲を作る時にいろんなアプローチを試みた。
風呂に入っている時に突然「お告げ」のようにメロディーとコードが浮かぶ→即効で風呂を脱出し五線紙に向かう→結果よく風邪をひく。運転中にまたまたお告げがやって来る→携帯したカセットレコーダーに鼻歌のように吹き込んでおく→結果帰ってから再生してなんだこりゃ?。寝ていて突然またまた再びお告げがやってくる→お、うんうん、こうだ、そうだ、イェ〜イと最後まで頭の中で鳴らす→よしよし、いいのがやって来たとばかりに起き上がって五線紙に向かう→結果最後まで頭の中で流れてしまったものは最後の部分ばかり再生されて始まりから二度と同じように思い出せない、、。等々、紆余曲折の連続、しかもこれを客観的に見られると周りからは理解しがたい奇怪な行為である。直情的に向かっても良い結果は見えなかったので自分が落ち着く時間を見つけると深夜のヘッドフォンw/ピアノになったわけだ。
自分で音楽を想像する時に見えるものがあった。それは光景とか風景とかといった抽象的なものなんだけど、自分の体験した場面から来ているので人とか物に対してではなさそうなので、これを勝手に想像展開しても問題なさそうである。画家がキャンパスに絵を描くのと同じで見たものを写真のように切り取るのではなく、ゆる〜く脚色した偶像を描くというのと同じかもしれない。最初の頃に一番悩んだのは「曲名」だった。一応出来上がったものには何か意図があるもので、それを第三者に伝えるには「言葉」という日常に載せるのが良いのだけど、これが意外と厄介。「おいしい」とか「美しい」という印象をそのまま「この曲は“おいしい”を表現した曲です」とか「思わず“美しい”と思った光景を表現してみました」な〜んてやっても何がなんだかわからないデス。だって12個の音に香りや絵があるわけでもないし。そこで天の邪鬼はクイズのヒントのようなものを曲名にする事を思い付いた。100人いたら100の個性があるんだから一つの言葉をまったく同じに受けとめてくれるとは思えない。だからヒントを出せば、何となく気付いてくれる人もいるだろう。。(後日ネットを介してリスナーの方とこの話しになって僕はヒントの事を“嬉しい錯覚”と表現した)
まあ、そんな感じで毎晩ピアノに向かう内に、先に曲名を作ってから始めたり、描きたいシーンを念じて(笑)から描いたり、写真やリトグラフをピアノに据えて眺めながら書いてみたり、出てきた一つの音やコードやリズムから書いたり、半月くらい放置してあったメロディーをブリッジにして作ったり、と、いろんな方法で作曲の動機作りを行いながら続けて行った。何となく自分の中で目標として「毎晩作曲、出来れば1日一曲、悪くても三日に一曲」。何が楽しくて風呂を中断してやってたのかはわからないが「浮かんだらその瞬間に書きとめろ!最後まで流れたら消えてしまうゾ」という強迫観念にも似た、一種の自己中毒だったのかもしれない。
そうこうする内に曲はどんどん溜まり、年間で200曲くらいになった。でもそれの全てが自分で納得出来る曲だったわけではない。不完全なもの、何かに似過ぎたもの、翌日冷静になったら大した曲では無かったもの、、でも中にはその時々で自分らしさみたいなものも、難産の上で成り立ちつつあったのは事実。頼まれもしないのに作曲で苦しんでドースル、そういう思いが無かったわけでは無いが、これはやっておいて良かったと思う。ま、若者よ練習せーよ、と言われても深夜に音が出せなかったから到達した苦肉の策ではあったが、酒飲んで寝てるよりは良かった、としておこう。それに何よりも実はその時間はとても苦しいが楽しかったのだ。ううん、、いわゆる快楽?にも等しいか。(爆)
そうこうする内に作った曲を人前でやりたくなった。よ〜し、という気持ちよりもいやはや、これは恥ずかしいようなそんな気持ちがあったんだけど、そこは乗り越えておかなきゃなるまい。最初の頃人前で何が一番恥ずかしかったと言えば曲名を告げる時だ。「次はナニナニです」と言う時に額からタラ〜リと暑くも無いのに汗が、、、(笑)。これも乗り越えなきゃなるまい、そう思ってやっている内に「いい曲ですね」とか「面白い曲ですね」とか言われるようになったらすっかり調子に乗ってそういう恥ずかしい行為を快感と思うようになってしまうところが今思うと情けないなぁ。。しかし、今でも自分の曲の説明となると困る。MCで20分くらい曲について喋れる村井君なんか尊敬しちゃうよ、まったく。
80年の後半はその為のリハーサルを多くやった。そうそう、リハーサル場所と言えば、当時初台にあったライブハウス『騒(がや)』を何度もお借りしたなぁ。警察署の横のビルにあったんだけど、なぜか甲州街道に車を置きっぱなしにしても平和だった。近くにパーキングが無かったのもあるかもしれないが、六本木『アルフィー』の時も(信じられないだろうけど)店の前に置きっぱなしだった。やはり隣は警察署である。ううん。。80年代はギスギスしていたような気がしていたが、こんなところではまだ大らかだったのか? 今はパーキングに直行しましょうね。『騒』に話を戻そう。営業の前にこの若輩者のリハーサルにお店を貸してくれたママさんは、いつも店の隅で開店の準備をしながら聞いていた。『騒』と言えばフリージャズの店として知れ渡っていたのになぜフリージャズでもないこの若輩者に貸してくれるんだろう? ある時ママに聞いてみた。「うん、そうね。アンタのは耳が疲れないからいいの。耳が疲れるのはゴメンよ」(笑)。不思議な『騒』の記憶、東京はいろんな個性がある街だ。
81年になってバンドのメンバーが変わった。オリジナルもやる為にいろいろな人と演奏する内に赤松(vib)石山経麻朗(g)高橋正(el-b)上野好美(ds)へと。またしてもリーダーは最年少バンドになってしまったが、このバンドでは大きな出会いが二人あった。
全ては書き切れないのが残念ながら若輩時代に影響を受けた共演者について少しずつ書いてみたい。
■石山経麻朗(いしやま・きょうまろう/g)ホームページ
現在は新潟に戻ってギタリスト、音楽監督、学校経営と忙しい日々を送る石山氏を紹介してくれたのは前任のドラマー鈴鹿さんだった。オリジナルをやりたいという僕の方針を聞いて、彼なら、と紹介してくれたのである。穏やかながら目が何かを物語る石山氏は当時30才、無例の理論派ギタリストでもある。この人の演奏から実に多くのハーモニーに対するアプローチを学んだ。そして何よりも自分のカラーを確立する為には欠かせない刺激をいつもバンドに持ち込んでくれる人だった。僕の知ってる事はもちろん、知らない事も石山氏独特の持論を経て演奏で投げ掛けてくる。また精神論でもいつも議論に引き込まれた。一件自由奔放でいて、それで一つの法則で生きるミュージシャンとして最初に刺激を受けた人でもある。彼の住んでいた西新宿で飲みに行ったり議論の末に喧嘩したりというのもあった。どこでも誰とでも自然に馴染む経麻朗ワールドは僕にとって羨望の的でとても大きなものだった。精神論から音楽への結び付きというのは僕には無かったからかもしれないし、まだまだ子供だったのだろう。
■上野好美(うえの・よしみ/ds)
残念ながら上野氏はもうこの世にいない。しかし上野氏なくしては現在のリズムに対するアプローチ理念は成り立たない。今から20年以上も前にルーディメントを発展させた天才ジャズドラマーが日本にいた事を書いておきたい。上野氏を紹介してくれたのも前任の鈴鹿さんだった。「彼は新しい事をやってるドラマーだから」とドラマーが推薦してくれるのだから間違いない。当時彼がリズムを変化させてビートにスリルとハーモニーに匹敵するインパクトを齎した事でバンドのサウンドは劇的に変化した。変拍子ではなくフレージングでこの変化を作るというのは当時まだ一般的ではなかった。そしてそれを実現すべく、彼はドラムセットのありとあらゆるノイズを除去し発音をクリアーにする繊細さと、全てのパーツの音量を整える技術を身に付けていた。僕も打楽器族に属す楽器なので彼の意図は大いに共感したし、ルーディメントとヴァイブのダブル&トリプル・ストローク奏法の共通する部分の開拓に着手する事となった。その為の曲を書く事は実にスリリングだったし、それが頭の中で描く以上のサウンドとなって彼のドラムから聞こえて来た時は感動的だった。悪戯好きの彼が演奏で感じた悪戯を形にする瞬間は唯一と言って良い恍惚感があった。今、あの天才的な彼のドラムが聴けないのはとても寂しい事なんだ。
81年に自分のバンドで初ツアーをやった。このバンドではいろんな所へ行った。春には西日本をツアーした。夜9時に秋葉原に集合し上野氏の車に楽器を積み込んで夜の東名を西に向かう。道中上野氏が愛聴する落語のテープが鳴り響く。曰く「音楽を聴いてるとつい気になって事故をおこす」曰く「笑っていれば長距離なんてチョロイもんだ」。一同うなづく。が、しかし。一晩中大音量で鳴り響く落語はかなり強烈なものがあり、初日の津山に辿り着いた時はみんな出囃子ノイローゼになっていた。会場の「500マイル」に入る前にしばし近くの児童公園で一休み、いや耳休め、烏のカァカァが心地よい。出発前に行った茨城県の鹿島でのライブには僕の車と2台に分乗してたのでこの顛末を知らなかったが、ベースの高橋氏が言ってた「うん。ちょっと疲れたよ」はこの事だったのか、、。(石山氏は僕の車だった)。高橋氏はちゃんと耳栓を持参していた!!。まだ出囃子がチャンリンチャンリンと響く中、会場でセッティング。サウンド・チェックが始まるとチャンリンチャンリンは徐々にアフタービートになった。やれやれ。
初日の津山は大盛況の内に終わり(この体験記でも出てくる津山「500マイル」は既に無いが04年10月の津山「邪美館」ライブで500のオーナー御夫妻が来られて懐かしい再会をした)、続いて四国は宇和島を目指す。これがまた長距離で今のように瀬戸大橋も高速も無い時代だから我々の一抹の不安は再び車のエンジンと出囃子に乗せてスタートする事になった。しばしの休息は宇高フェリーの1時間。カモメのカァカァと波の音が心地よい。四国上陸後は国道11号線をひた走る。途中新居浜の辺りで昼食という事になりどこにしようか?と思案する間も無く運転していた上野氏の一存で「札幌ラーメン」の看板の元に拉致される。曰く「全国何処へいっても迷ったらココ」。氏は北海道出身であるからやむをえまい。が、数分後、氏は怒りに触れるのである。曰く「これは何だ?札幌ラーメンか?おかしい、この味は違う」。他のメンバーは「そうでもないよ、旨いよ」とズルズル。「いや、これは絶対に違う。こんな札幌ラーメンは無い!」と断言して店主と大喧嘩かと思いきや、全部平らげて「ごっつぉさんでしたー」と。。我々は肩透かしを喰ったんだけど、そこは上野氏「ぐっと堪えて俺も大人になったなぁ」(笑)と。しかしココを選んで我々を拉致したのは誰だ! うん、もぅー。
四国路の春はお遍路さんである。白装束に身を包み「同行二人」と書かれた杖を持ちつつ麗らかな春の陽射しを浴びながら遍路するのであるが、われわれは依然として出囃子に包まれた同行四人衆である。朝9時に津山を出て宇和島に着いたのは午後5時になっていた。以前にも増して出囃子の残像に酔いしれる中、主催の喫茶「鈴」のマスター高宮さんに挨拶する時もやはり出囃子が鳴っているんだナ、これが、、、。会場にお借りした『旅』という店に楽器をセッティングし、今日はこのまま本番に突入する事になる。宇和島という所は愛媛の松山生まれでも案外縁が無かった。しかし、ここのお客さんは何か反応が違った。演奏していると目の前にお客さんがいるような(実際そうなんだけど)そんな聴き方をされる。我々が「右〜」と言うとお客さんも「右」、「左〜」と言うと「左」に。会場全体が右に左に上に下に前後天地無用に着いてくる。そんな感じなんだ。それでいてソロチェンジの時の拍手なんか無い。静かなんだけど全員が遊体離脱(でいいんだっだケ?)して音と一緒に浮遊しているような不思議な感触があった。それでいて最後に「セッションでもやりましょうか」と言った途端にトロンボーンやら何やら乱入(笑)で盛り上がる。本当に不思議で熱い空間が生まれた。終わった後の打ち上げで高宮さんにその事を話したら「あ、それはですね、ここらへんではこういう機会が少ないですから、そういう時に集中して聴く癖があるんですわ。クラシックでも何でもそうです」と。この時のツアーが切っ掛けとなって以来宇和島には何度もお邪魔する事になったが、高宮さんをはじめ皆さんとの交流はいつも発見を齎してくれる事に。何か一味違う香りのする街なんだよね。
さて、宇和島の翌日は地元松山へ。今日は松山のジャズ喫茶「モッキンバード」のママ大石さんが主催してくれるジョイント・コンサートだ。しかしジョイントのお相手が、あの向井滋春さん(tb)のバンドだ、と言うのでかなり慌てた。「それ、間違いでしょ?」って何度も確認。「前座だ前座、でしょ?」と言ってもyuriさん(大石さん)は「ジョイントよ」の一点張り。こんな上京1年そこそこの若輩者が相手で良いのかぁ?などと思いつつ会場となる南海放送の『テルスター・ホール』に入る。こうなったら開き直りである。もう何も見えなくなるのが若気の至りでもある。チャンリンシャンリンと出囃子も鳴ってる事だし。僕らが着いた頃には向井さんのバンドのリハーサルが始まっていた。向井さん(tb)広木光一(g)佐山雅弘(kb)斉藤誠(b)トニー木場(ds)という面々。どちらかと言うとフュージョン・サウンドがビシバシ決まるバンドだった。御挨拶もそこそこにこちらのリハーサルが始まる。若気の至りとは恐いもんで本番が始まるとバンドは明らかに普段よりもサウンドが炸裂している。力み過ぎか? まぁいい。思いっきりやりましょうや。そういう気持ちでかなり持ち時間も延長して終わった。それなりに聴衆にも受けていたし、これはこれで善しとしよう。うん。と、二部の向井さんのステージを会場で観に行って驚いた。リハーサルとうって変わってダイナミクスが大きい。来る時は来る、遠くの時は遠くに、、、目からウロコだった。そして周りの聴衆も明らかにヴォルテージが上がっていた。ううん、、やられたぁ。。、、、。ジャズは個人個人のプレイを活かすのだからとグループによる表現と言う事をあまり考えて無かったかも。。。良い勉強になった。yuriさんはそれに気付いて「大丈夫、ちゃんと良かった、一部の方が面白かったって言う人もいたから」と優しく労いの言葉を掛けてくれたんだけど。打ち上げの会場で僕は言葉少な気だった。向井さんは優しく「お互いバンマス同士で話そうよ」と声を掛けてくれたが頭の中は別の事に飛んでいて失礼ながら何を話したのかも覚えていない。佐山氏と話したのは覚えていて「僕は難しい事はなるべく簡単に、簡単な事はちょっと手を加えるがモットー」と言っていた。そうだよなぁ、難しい事を難しくされたら疲れるもんなぁ。納得。リーダーとして大いに考えさせられた公演だった。方向性というものも絞らなくては、、当時オリジナルがまだ少なくスタンダード、それにチック・コリアやスティーヴ・スワロウ、キース・ジャレットの曲などを交えながらやっていた。バンドとしてのトータルカラーを活かしたオリジナルの強化か、、、、。課題はまたまた山積みである。
翌日は松山の小さなライブハウスでやり、打ち上げの席でちょっとした事件もあった。たいそうな事では無いがyuriさんがプレゼントにくれたJAZZロゴのカッターナイフを酔っぱらったI氏が冗談で振り回す内にU氏のジーンズを傷つけたのであるが、U氏は傷害事件だ、と言って譲らない。どーするこのツアー。半分は冗談なんだけど、事ある度にU氏は「この人は人を傷つけますからみなさ〜ん御注意下さ〜い」と返すのでI氏もキレかかっている。ふぁ〜、ってリーダーは余りにも子供じみてて相手してないんですケドね(笑)。さて、その翌日は鳥取に向かう。そう、懐かしいライブハウス『5ペニーズ』だ。四国縦断〜瀬戸内海横断〜中国山地横断である。出囃子はドンド〜ン、シャンシャ〜ンに変わりつつも依然車内に鳴り響いている。I氏とU氏の関係はまだ修復されていない。『5ペニーズ』に着いたのは夕方だった。依然耳鳴り、元い、出囃子に乗せて(?)マスター峰さんに御挨拶。昔とは場所が変わっていて市内中心部にあった。セッティングして本番。どうやらメンバー間のギクシャクは演奏にも反映されているようだが、これが意外や意外、慣れた曲でも普段とは違った緊張感を齎して演奏にスリルがある。わからないもんだ音楽は。普段にも増してリズミック・パラフレーズが炸裂する上野氏、それに対抗する石山氏。これはこれで美しい緊張感を持った音楽だとリーダーは思う事にした。例によって最後のシメは当然「インプレッションズ」。この店のお約束であるが、これがとんでもないアップテンポになった。ううん、、まだ後ろで戦いは続いているようである。しかし、峰さんは「ええじゃないか、わしゃ気に入ったでェ」と。こちらは倒れそうに早かったんだけどね。それで打ち上げがあり僕も懐かしい人に会えたし、めでたしめでたし、のはずが、またまた戦争勃発。どうやら打ち上げの席でU氏が気に入った人と話せなかった事に腹を立てて、その人達と同席していた僕とI氏に攻撃が始まった。ホテルはツインだったので二人ずつに分かれてチェックインしていたが、この組み合わせが悪かった。僕と高橋氏、U氏とI氏だったのだ。ホテルに先に帰ったU氏は怒りが爆発してホテルの廊下にI氏の荷物を全部投げ出していたのだ! そんな事とは知らない僕とI氏がホテルに帰ると、、唖然としたI氏が「あれぇ?何で僕の鞄がこんな所にあるの?、レレェ?あ、ギターも、あ、私物が全部転がってる、あ〜、あいつだな、くっそぉ〜、バカヤロウ」とドアをガンガン叩く、U氏曰く「っるせ〜ェ、月夜の晩ばっかじゃねえゾ|」。名言かもしれない。。。I氏が仕方なく自腹で部屋を取ってその夜は事なきを得たが、、、。
今日は今回のツアー最終地の姫路の老舗ライブハウス『ライラ』」へ。出発してから車内は一言も会話がない。無気味だ。チャンリンチャンリンという出囃子も鳴らない。こうなると日頃ノイローゼになりそうな鳴物が聞こえないのも、、無気味だ。ここまで晴天続きだったツアーなのに雨が降ってきた、、、さらに無気味だ。と、ある峠に差し掛かった時に、ふいに運転していた上野氏が口を利いた、いや、弱々しく何かに怯えているような感じて、、、「おい、何か感じないか?」僕、高橋「え、全然」石山「無言」。上野「さっきから何かに見られているように感じて気味が悪いよ」僕・高橋「え、そんな事ないよ、全然」石山「無言」。。。。車を停めて上野氏はじっと周りの気配を探っている。僕と高橋氏は何も感じない。石山氏は黙って本を読んでいる。「あそこ、あの辺り、何か変だよ」とトンネルの入口辺りを指差す。「何も見えないよ」と僕・高橋。と、突然「そうか、やっぱり何か感じたか。僕もおかしいと思ってたんだ。ここは何かいるぞ」と石山氏。「だろ、だろ、そうだ、お前は解ってたんだな。あそこ、ほら」と上野氏。「あ、あそこにも」と石山氏。何だかわけがわからん僕は「そう言えばこの辺りには落武者伝説があると聞いた事があるなぁ」と昔し津山時代に聞いた話をしたら、上野・石山「それだ、それ、それがあそこに見えるんだ! 早く行こうぜ」と一緒になって叫ぶ。運転を僕に代わってそそくさとその場を立ち去る事にした。言われてみれば雨と風で木々が揺らぐ光景が一種の幻想を見せたのかもしれないが、この奇妙な目撃事件から急速にU氏とI氏が打ち解けて話しだしたのは(今さら伏せ字でどうする)、これまた不思議だ。前日までの戦争が嘘のようにペラペラ話している。余りにも子供じみでいるが、ひょっとしたら、この最年少リーダーの困惑を読んで自ら打ち解ける切っ掛けを作ってくれたのかもしれない。ううん。。でもなぁ、この人達だからなぁ、、、(笑)。しかし、姫路での演奏は前夜の攻撃的な演奏から打ち解けた会話になっていたのも事実。打ち上げでマスターと話してると「そういう話しはこのへんにはゴロゴロケありますワ」と。このマスターも初対面だったから不思議なオーラを持った人に感じたんだけど、いろいろと話す内にとてもホットな人である事がわかった。後日手記のようなものを依頼されて書いて送ったり記憶がある。
リーダーとしての初ツアーはいろんな事件やハプニングの内に終わった。しかし、冒頭でも書いたように、この二人の個性的なミュージシャンの力添えがなければステージもバンドも成り立たなかった。僕としてはあらゆる意味で刺激的な相手だし、それによって自分の音楽というものがあぶり出しにされたバンドだったと思う。ミュージシャンは子供のような感性で生きている、だから多少の脱線はリーダーは覚悟しなければならない。それは何物にも代えられない得難い音を発してくれるからだ、、、、。じゃあ、自分はどうか?って。ううん、、、自分が脱線するなんて思ってる奴がいないところがリーダーの悲しい性(サガ)かもしれない。現実から離れたところにいる住人である事を自覚していないのがリーダーという見方も、、、まぁ、あると言っても、、、、、、クレームはないかな。しかし、それらにも増していろいろな場所でいろんな人と巡り会うのが明日への活力。リーダーはそれを求めて前進あるのみ。そうなんデス。(当時の流行語)
その頃になると少なからずリーダーバンド以外にもライブに呼ばれる事が増えてきた。また、そういった色々な場所に顔を出すようになると「ヴァイブを教えて下さい」という人達も増えてきた。24才で教えられる事はまだまだ少ないが少しは経験もあったのでプライベートに教える事にした。世はフュージョン・ブーム、ヴァイブは相変わらず日影の存在だったが、海の向こうからは「ステップス」や「スパイロジャイラ」等、ゲイリー・バートンの次の世代が新しい音楽にヴァイブを引っさげて登場している時代だった。旧知のT君が桐朋に在学していたので、マリンバの人達が興味を持ちアドリブに挑戦してくる。一般の人に加え、学生の伝え聞きで国立音大や武蔵野音大、上野学園からも習いにくる人がいた。 今でも時々ネットを介して懐かしいその頃の人達からメ−ルが届く。いろんな場所で頑張っているようだ。そして今でも同じように一般のミュージシャンの卵達や音大から通う人達がいる。みんなでもっとマレットキーボードの魅力と応用を広めよう。教えていると知らない間に自分が原点に戻っている時があるから不思議だ。でも、もう少し専門的で総合的に習える場所があれば、とも思うのだが、1人1人の個性とペースに合わせてやるのは学校形式では不可能に近いからこれでいいのかもしれない。その内にマレットキーボーダー専門の育成機関が出来れば別だが。
さて、1981年に戻ろう。そんな感じで昼は連日レッスン、夜はほぼ毎日ライブや演奏、深夜は相変らずの作曲が続いていたある時、電話が鳴って出ると『モッキンバード』のyuriさんからだった。「あ、この間のツアーではお世話になりました」と挨拶すると「元気ィ〜。みんな喧嘩してなぁ〜い?」(笑)。と、突然「今ねぇ東京にいるよ」。何とびっくり、実は前から電話でいろいろと話しをしていて自分も音楽を制作する側に付きたいという夢を持っていた彼女は着々と準備をして、今回は視察を兼ねて出て来たのだ。「会いにおいで」と言うので飛んで行ったのは言うまでもない。いろんな話しをして、そこで一枚のメモを渡してくれた「この人に電話しなさい。いい人だよ」。
その相手というのはピアニスト高橋佳作氏だった。
■高橋佳作(たかはし・けいさく/piano)プロフィール・ページ(御本人のHPは見つかりませんでしたので所属するバンドTMBのページです)
高橋佳作さんとの話し。
当時、佳作氏は何度めかのニューヨークから戻って来たばかりで、あちこちのライブハウスで活躍しとても忙しい人だった。そのバイタリティーはそれまでに見たミュージシャンの誰よりも積極的で、音楽の興奮をオーディエンスと共有する事に長けた人だった。僕のようにフラフラと田舎から出て来てノンベンダラリとやっているのとは違う、シャープに行動しつつホットな演奏とトークで周りを魅了する人だ。佳作氏とは実にいろんな所で演奏した。そしてその殆どが佳作氏のよるブッキングだった。ある時、青山のライブバー『トランク』でデュオ出演の時に、「今度このデュオのデモを録音しましょうよ」と言うので、「いいですねぇ」と返した。何とかカントカっていう話しもしていたのだけれど、僕は次に演奏する曲の事で頭がいっぱいだった。その日演奏がはねてから赤坂に飲茶を食べに行った時も「あの、さっきの話しですけどお互いに1曲ずつ出し合うって事でもいいですか?」ムシャムシャムシャ、、「いいですよ」モグモグモグ、、と飲茶に夢中でとにかくムシャムシャパクパクの快諾である。後日佳作氏の自宅で録音し、何とかという所にテープを送ると言うので「ホイホイ」と快諾して、再び日常に戻った。この頃、池袋に『デるブ』というライブハウスがオープンし、毎週末土曜日にオールナイト・セッションが始まっていた。キャパは当時としては大きめで六本木ピットインを一回り小さくしたような造りだった。なぜこの店の事を知っていたかと言えば、yuriさんや周りのミュージシャンからの噂が絶えなかったからだ。新しい店が出来ると若手が一気に押し寄せる。そんな時代だったが、僕はと言えばセッションとは無縁だろう、と思って過ごしていた。だって楽器を持ち込む作業は大騒ぎで、場所も取ってしまうからおいそれとは気軽にセッションに参加出来ない悲しい楽器の性。ところがある日佳作氏から電話が入り、このオールナイト・セッションのホストバンドで入るというのである。僕にとってセッションというのは初体験に近かったが、どうせ深夜は作曲しているのだし土曜の夜中は出掛けて演奏してギャラまで頂けるとはありがたい、と快諾。土曜の夜が楽しみになった。
午前0時を過ぎて要町の交差点で楽器を降ろす。午前1時スタートまでにセットアップする為だ。いくら子供の頃からの深夜族とは言え、この時間に演奏するのは初めてだ。佳作氏は実に幅広い人脈を持っている。だからここでオールナイト・セッションをやる事をミュージシャンに告げると深夜の店は勢いお客さんとミュージシャンで満杯になった。凄い。「さぁ、午前5時まで、今夜もノッてるゾー!」という佳作氏のMCに続いて熱狂の夜が始まる。次々に演奏帰りのミュージシャンが顔を出してはレギュラー・メンバーと交代する。やはりピアノが多いが、サックスやギターも次々に順番を待っている。もちろんボーカルも。しかし、ヴァイビストはゼロ。ヴァイビスト人口を考えるとそうかもしれないなぁ。。。。しかし、その内に「アソコのセッションにはヴァイブがいて楽器がある」という噂が広まり、まず当時池袋で演奏していた出口辰治さんが帰りに顔を出すようになった。その内に板垣さん、藤井さん、有明さん、斉藤さん、、、回を重ねる毎にヴァイビストが顔を出すようになって思わぬ深夜のヴァイブ・サミットになる事も。また、他の楽器との交流も盛んになり、いろんなミュージシャンと出会う他、中には急な仕事でメンバーが足りないバンマスまでメンバー探しに来るようになった(笑)。午前1時から延々4時間に及ぶ徹夜の響宴の最後はだいたいブルースで締める事が多かった。その頃になるといくら元気な若手とは言え意識がモーローとしてくる。客席のあちこちには椅子にどっぷりと浸って爆睡しているミュージシャンもいれば、完全に酔い潰れた「ワシ、今夜ドーナッテモしらんケンネ」モードのまんま始発待ちに至るお客さんもいる。様々な人の様々な喧噪と思惑に満ちた毎回満員の『デるブ』高橋佳作オールナイト・セッションはそうして終えんを迎える。やがて店内にJ・コルトレーンのバラッド「SAY IT (Over and Over Again)」がけだるい朝の吐息を助長させるかのように流れる時間となり『デるブ』は長い土曜日の終わりを告げる。今でもコルトレーンのバラッドを聴くと駆け出しの頃に触れたたくさんの初めてとその瞬間の空気を思い出す。それにしてこれだけの人を動かす佳作氏のパワーは僕にとっては驚異に思え、自らの道を開拓して行くこれからのミュージシャンの生き方を教えてくれた。

Sunday Afternoonという佳作さんの曲を覚えている。僕の複雑な(と、言うよりも整理されてないアンバランスな)曲に比べてシンプルで無駄が無かった。中野にあったライブハウス『いもハウス』で何度もデュオで演奏した。そうそう、この頃になると松山『モッキンバード』のyuriさんはしっかりと東京に出て来て、この『いもハウス』のブッキングを担当するようになっていた。ある時、佳作氏が「この間のテープなんですけど、無事に通過しましたって」と。一瞬何の事だか忘れていた僕は、あのデュオのデモだという事を思い出した。「そりゃ良かった」と言う僕に「ついてはカクカシカジカで本選で演奏するんですけど、イツイツの昼間は空いていますか?」と。勿論空いていたので快諾。で「場所って何処ですか?」と聞くと「六本木ピットイン」だと言う。うっひゃ〜〜!、あの六ピとは、、。場所でキンチョーしてしまう。当時佳作さんに誘われてサルサ・バンド(江尻時男さんというパーカッショニストのリーダーバンド)でも演奏していて、その中で六本木ピットインヘも出演が何度かあった。だからそのバンドで初めて六本木ピットインのステージに立った時の緊張感はまだ忘れていないのだ。これが「あの」六本木ピットインかぁ。当時はフュージョン全盛期、その中でも六本木ピットインは日本のフュージョン界の牙城として名だたるバンドが連日出演し、人気バンド出演の前夜には徹夜の行列の出来るミュージシャンにとっての憧れの店でもあった。だから勝手に緊張してしまうのだ。そこでナントカの関東地区本選とは言え演奏するのはプレッシャー。しかし、これも超えなきゃなるまい。よ〜し、やりましょう、と。。。しかし、この時点でもナントカの本選と言うくらい何の事だかよくわかっていないヴァイビストって、いったい。。
82年のある冬の日曜日の昼過ぎ、六本木ピットインの前に車を停めて楽器を運び込む。あの階段を降りている所までは覚えているが、セットした楽器を何処に置いて何番目の出番だったかまでは覚えていない。そして次に覚えているのは、あの階段を昇り目の前に駐車していた車に楽器を積込んでいる時の事だ。ふと、我にかえると横で佳作氏が「ちょっと早くなりましたねぇ。緊張しましたか。でも大丈夫です。今度は日本青年館ですから、よろしく頼みますよ」とニコニコ。そして一瞬暗い表情で「でも、僕の曲じゃなくて貴方の曲が受かりました」と、、。しかしすぐに「な〜んて、ね」と笑う。この頃からようやく何をやっているのか理解してきた(←無茶苦茶鈍感)。アン・ミュージック・スクールが開催するオール・ジャンルのオリジナル作品演奏コンペティション「Annex'82」の事だった。今日はその中の関東地区の本選だった。これを通過すると全国大会が5月に日本青年館であるという。ちょっと自信を持った(←やっぱり遅い)。ミュージシャンのコンテストがあるのは知ってたがヴァイブ部門などあるはずも無く、僕には無縁と思っていた。またまた佳作氏によって初体験が増えた、いや、自己完結のヴァイビストが巣からあぶり出されたと言っていいだろう。
『デるブ』の高橋佳作オールナイト・セッションでは実に多くの同世代ミュージシャンに出会った。その誰もに佳作氏は僕を紹介してくれて僕にとっては大きな交流が持てるようになった。セッションのホスト、レギュラーメンバーとしていつも顔を合わせていたのはラテン系のバンドで活躍するベースの五十川氏、横顔がキース・ジャレットそっくりのドラムの飯塚君や日高さん。殆どレギュラー状態だったギターの橋本氏、さらにボーカルのまりあさん、小林洋子ちゃん、西川さん、北山哲子さん(高橋氏の奥様)等、佳作氏とライブを通じて繋がる若手達が集結。他は飛び入りの連続で仕事帰りでまだ演奏が燃焼していないミュージシャンや、夜中に街を徘徊するミュージシャン、サックスの植松さん、佐藤達哉氏、ドラムの森山さんなどベテランと、とにかく新人が入り乱れていた。そんな中でも個性にびっくりしたのがボーカルの加藤多聞氏でアル・ジャロウのようなボイスパフォーマンスで毎回客席を沸せていた。ジャズセッションでありながらもチック・コリアのスペイン等当時の若手ミュージシャンが知る限りの新しいスタンダードも取り上げていたので入りやすかったのだろう。佳作氏は実に忙しく店内を駆け回り、ぞくぞくと飛び入りするミュージシャンを整理し、演奏し、ステージの進行を行う。こんなにいろんな事を同時進行出来るミュージシャンを見た事がなかった。そしてこれだけの様々な個性溢れるミュージシャンの演奏に直接的に触れられたのは佳作さんのおかげだった。もちろんこの頃には「今度は日本青年館ですから、よろしく頼みますよ」という言葉の意味をしっかり焼付けていたのは言うまでもない。
そうして向かえた「Annex'82」の当日。日本青年館にいた。簡単なサウンドチェックの後、ゲストのリハーサルが行われた。ゲストとはファンク・ジャズ・ブームの台風の目であるジョ−ジ・デュ−ク氏。ショルダー・キーボードを引っさげてヘヴィーなファンク・ジャズをやっている。一緒にやっているのは、当時売り出し中の「スクエア」。あれ?その中に見た顔がある。バックステージで交換する時に「あれぇ?」「おやぁ?」「イェ〜イ」と言葉を交わす。キーボードの和泉氏だ。先日ドラムの上野氏の引っ越しを手伝った時にピアニストとして紹介されたばかりだった。彼は上野氏のトリオにも参加していた。バタバタと本番(本選)が始まる。全国各地からジャズ、フュージョン、ロック、ポップスの次代を担うツワモノがオリジナルを引っさげて集まっているのだ。特に聴いていて感心したのは関西から来たトンペッターのバンド。フュージョンに変拍子が実に巧妙に織りまぜられてスリルがある。そしてロックバンドで北海道から来た「逆噴射バンド」。当時そう言う事件があり早速バンドネームに組み込むあたりはロックの王道でタダモノではない。そして演奏も歌もほぼ同世代で別ジャンルの僕にも強くアピールするくらい素晴らしいものだった。佳作氏とのデュオはロックバンドの後の出番だった。バタバタとしたステージ転換にも関わらずホールなのでピアノの響きも自分の楽器もクリアーに聞こえる。演奏したのは当時の僕のオリジナル「レモン・ドロップス」というワルツの曲だった。ううん、、如何にも曲名で苦労している様が、、、(笑)。しかし曲名の苦悩とは別に響きが聞こえるというのは随分リラックスして演奏できるものだ。久しくライブハウスしか演奏してなかったのでホールはとても気持ち良かった。ロックバンドの大音量の後でささやかな音量のアコースティック・デュオというのはどうなのかな?と少々心配していたが客席の反応は悪いものでは無かった。むしろ意外な程反応が良かった。どこかで「イェ〜イ」と叫んでいる奴もいた。佳作氏も終わってから「今日は落ち着いてましたね。良かったんじゃないでしょうか」と。楽屋で一息付いてから客席に戻って他の出演者とゲストの演奏を聴いた。
「お待たせしました。結果発表です」という司会の声でホールは水を打ったように静まり返った。僕の中では「逆噴射バンド」がイチオシである。各部門ごとに賞が渡されるのかと思ったら、これは各部門の優勝者が競う総合グランプリなのでジャンルは関係ないそうだ。あらま、こんな事までこの時点で解っていないヴァイビストって、いったい。。。。それぞれの個人賞から発表となった。殆ど聴いたので「あ、あの人」「お、この人」みたいな感じでやはりロック、フュージョン部門からの受賞が多い。素晴らしい!! と拍手をしているとチョンチョンと肩をつっ突かれた。「ふぇ?」って顔をしていると「呼ばれてますよ」と言う。「はぁ?」と思ったが「ホラホラ、ステージに上がって」と。何だかわけが解らずに客席を掛け降りてステージに上がる。「おめでとう!」と司会者に迎えられて「ベストプレーヤー賞」というのをいただいた。こういう時弱いんですよねぇ。ロックの人達なんかカッコ良く客席にピースとかポーズをして賞を受け取っている。ううん、、どーしよう、、一瞬迷ったけど恥を捨てて客席に手を振ってみた。手を振るのは楽器を叩くのと同じだから照れ隠しでも何でもない。また「イェ〜イ」って叫んでる奴がいる。かえって拍手に負けてこちらが照れる。。。ううん、、ジャズメンはシャイなのだ。だから地味がいい、、。何だか知らないが汗をかいてる。続いて総合グランプリの前に本日は「審査委員特別賞」があると司会者。「高橋・赤松デュオ」とコールされ、今度は佳作氏がステージに上がって来て並んだ。「イェ〜イ」と満面の笑顔でハグしてくる佳作氏、この人の笑顔はいつ見ても僕を緊張から解き放してくれる。そして「総合グランプリ最優秀賞」の発表。やはり僕もイチオシだった「逆噴射バンド」。みんなでエールを贈る。当時ジャズをやっていて、しかもオリジナルで全国規模のコンテストなんて知らなかったヴァイビストは深々と佳作氏に感謝の念を送った。モノマネによるコンテストじゃないオールジャンルのオリジナル大会という場所に普段地味なヴァイブという楽器を引っ張りだしてくれたんだ。最後に司会者が「今日はもう一つ特別な賞があります。ゲストのジョージ・デュークさんからのゲスト特別賞を発表します」と。ファンクの神様からとは素晴らしい!! きっとあのファンク・バンドの人だろうな、と思っていたら、突然自分の名前が呼ばれてびっくり! え〜っ、ファンクの神様と僕がどうしても頭の中では結び付かないままにフラフラとステージ上で微笑むデュ−ク氏とハグし賞をいただいた。何だかよくわからないが、これは良い事だ!と必死で自分に言い聞かせていたのを覚えている。気が付けば総合グランプリ6つの賞の内、高橋佳作さんとのデュオで3つを受賞しジャズ部門のグランプリになっていた。いやはや佳作さんの采配に感服。この受賞によって雑誌等でも少し名前が知られるようになったのは言うまでもなかった。「次は何をしましょうか〜」と悪戯っぽく笑う佳作さんがとても大きく見えた。
演奏でリラックスという事の重要さをこの時に自覚した。ガツンガツンと自分の知ってる事を必死にやるんじゃなくて、周りを見回してその日の響きを感じながら気持ちを高める事、これがそれからの自分の課題にもなった。作曲も同じかも知れない。リラックスかぁ。。。周りとの関係もそうだよなぁ、、「笑ってる場合ですよ!」(当時の人気昼番組名)
[2004年11月20日記]