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四方山話「ま」編

見返り美人

写真はナポリ考古学博物館の見返り美人(?)。何度か訪れている博物館になります。展示されている作品群の中で気に入っている彫刻の一つです。申し訳ありません。正式名称を失念しました。クリックを当ててもらえれば全体像がご覧になれます。頭の髪を結んでいる鬢止め(?)も髪型もモダンで良いと思います。現代でも流行ると思います。彼女の視線は後ろに注がれています。何を観ているのかといいますと、自身の後姿です。見惚れているようにも見えます。リアルです。誇張のない、ありのままの女性の容(美)があります。 博物館の彫刻作品の多くはイタリアの 一貴族であったファルネーゼ家の所有だった作品が多いです。 この見返り美人(?)は「ファルネーゼ家の 休息するヘラクレス」「・・・・の牡牛」等が展示されている部屋の入り口に在ります。多くの美術館・博物館で彫刻も絵画と同じような扱いがされていますが(正面から観るようにしか展示されていない)この彫刻はパリのルーブル美術館の「ミロのビーナス」と同じように360度ぐるりと観られるように展示されています。しかし、ギリシャ時代にこの作品のように正面ではなく背後を意識した作品が創られたと云うのは、当時の観方の柔軟さを考えさせられます。因みのファルネーゼ家の彫刻群はローマ時代の本物ではありますが、その多くは既にギリシャ時代に創られていたブロンズ像のコピーと云われます。

2003年02月13日 木曜日 作:村上 精紀

南イタリア

ポンペイの遺跡は世界的に知られる観光地です。世界遺産にも登録されています。紀元79年の爆発により山頂部分の殆どが吹き飛び、現在はヴェスヴィオとソーマ、二つの山頂部分に分かれました。吐き出された灰は30時間余り降り続き、積もった高さは7mにも達したと言われます。ポンペイの遺跡も素晴らしいですが、この山は見る角度で様々な表情を見せてくれます。現在は1200mちょっとの山ですが、爆発前は3000m以上の高さがあったと言われます。ナポリの街から見えるヴェスヴィオは小さな、おとなしい感じの山ですが、ソレント半島サレルノ方向から山道を下ると、視界に入って来るヴェスヴィオは大きく、高さを感じさせる山になります。爆発前のヴェスヴィオを想像させます。ヴェスヴィオの周辺をぐるっと回ってみるのも面白いかもしれません。
 その後、ポンペイは忘れ去られた街になっていましたが、18世紀になってフランス・ブルボン家の手により発掘が行われます。ただ、その当時は発掘ブームも流行って目新しい発掘品を見付けるのが主目的だったようです。後にイタリア人の手に寄って組織だった発掘作業が行われるようになり、現在、目にする事の出来る2000年程前のポンペイの街を観られるようになりました。
初めて訪れると驚かれ方が多いです。約2000年前に今と変わらぬ人間生活が営まれていた事、そして、余りの規模の大きさにビックリされます。
ナポリから車で1時間程走るとソレント半島にあるリゾート地ソレントに着きます。そして、そこから目と鼻の先にカプリ島があり、ここにも有名な観光場所、青の洞窟が有ります。
ソレント半島からサレルノへの道路は、片側一車線の海岸線沿いの道路が続きます。そしてサレルノから南へ、しばらく砂浜の海外線が続きます。その海岸線が終わる辺りに、パエスティウムと言うイタリア半島の中に有るギリシャ神殿では最も良い保存状態の遺跡を持つ街があります。
古代、ギリシャ人が植民都市を造る為に本国を離れて地中海に出ていきますがこの辺りにもやってきました。遺跡の中を回っていると、殆どの建物は廃墟として当時を忍べます。ただ、約2800年前のギリシャ神殿だけは立派に生き残っています。地中海を中心に生活を営んでいた人々の思いが伝わります。
ソレント半島からサレルノ辺りまでは現在でも陸路を使って移動すると、なんと不便な場所なのだろうと感じます。何故ならこの辺りの地形は山が海岸線まで迫り出しているので、家も道路も利用可能な場所を選んで造られています。斜面に張り付くように造られた葡萄、檸檬畑そして点在する家。現在の風景は昔とそれほど変わっていないと思えるほどです。
海路、本国からやって来たギリシャ人が海岸線沿いに都市を造り、後世の人々もそれらを再利用しながら街を大きくしていきます。陸地よりも大海原が安全で開けていた世界であった時代には、現在の感覚では想像もつかない社会があったのだと思います。移動手段、輸送手段の主流が車、飛行機時代の我々には、何故このような場所に、このように大きな街があるんだと驚かされます。
 イタリア北部、中部の大都市だけを訪れていると、分からない社会、歴史が南イタリアにはありそうです。
そこにミラノやヴェニス、フィレンツェがあっても、ここにはイタリアであってイタリアではないと自負する人達がいます。そして北部、中部よりも長い歴史を背負って住まう人々の地域が有ります。私は、イタリア南部が北部の人達からどのような事を言われても意に介さない、自分たちはイタリアの人間じゃないんだ。イタリアとは違うんだ。と言う心意気を感じます。そして、ますます南部への興味が沸いてきます。
          

2001年06月04日月曜日 作:村上精紀

ミロのヴィーナス

 ルーブル美術館の中で、一体の像にこれだけの空間(25平米ぐらいは有る)が提供されているのはこのミロのビーナスだけだと思います。ぐるりと周りを回って鑑賞できるようになっています。このバックの形も気に入っている一枚です。既に紀元前に女性をこれだけ観察出来て、このような像が創られたと言うのはすごいと思います。よっぽどおおらかな時代だったのでしょう。腕はなくなっていても、その良さは何ら失われていません。
我々が美術館を訪れる時、鑑賞の対象とする多くが2次元モノです(絵画等)。ですから、像を鑑賞するときも正面と考えられる面を中心に観てしまいます。しかし、ミロのビーナスは広い空間に置かれ、360度から鑑賞してもらいたい様子で、我々を待っているように思います。ミロのビーナスも紀元前の人間生活の中から誕生したモノです。現在の我々の生活も3次元の中で営まれています。2次元の中で生活しているわけではありませんので、3次元空間に置かれたミロのビーナスは我々と同質の世界にいます。2次元世界の絵画等よりも多くの話を聞けそうな気がします。
多くの鑑賞者は正面から眺めます。正面から像の写真を撮ります。今回、違った角度から観て回り話を聞こうと撮ったのが下の写真です。特に気に入ったのが斜め45度あたりから撮ったビーナスです。

2000年09月22日金曜日 作:村上精紀

モダン・アートU


前回、ここで「モダンアートはUSAが面白いと。」書きましたが、この美術館(Kisama)も面白いです。是非、機会があればいらして下さい。モダンアートは、頭で観るよりは五感を最大限に活用して、観ないことには面白くない代物です。この点でもこの美術館は楽しい展示作品を揃えています。確かにコンテンポラリー(?)と言われる作品が有って、この先、どんな風に進むのだろうと言う感じのモノや、コンピューターを操作して愉しむ作品が有ったり、刺激的なモダンアートに会えました。隣国のスウェーデンも訪れましたが、面白いアートが有りましたので観光写真で紹介します。
 北欧のアートは独自の流れを創っているのでは・・・。
大陸のアートには幹の太い流れが有って、それは連綿と現代まで続いています。フィンランドのモダン・コンテンポラリーから過去のアートを眺めて観たとき、北欧のアートには、ある境界線、時期まで来て、そこからポーンと一足飛びにモダン・コンテンポラリーへやって来た。そのような感じがしました。これまでに北欧の作品をたくさん観て来たわけではありませんが、Kiasmaの作品を観てそのような感じを抱いたのです。独特な面白み、迫力がありました。
 イタリア・ルネッサンス期頃から絵画技法が変化していきます。遠近法、消点透視法、果ては二次元空間に彫刻擬きが施され、いつまでも、じたばたして平面を弄くり回していきます。
 現代では、いろいろな材が使われて平面が弄くられています。最近、ミネソタ(USA)の画廊を覗いて驚いたのは、夜の公園に一台の車が駐車している絵でした。その絵の公園の街灯と車のヘッドライトに本物の豆電球を埋め込んで明かりを灯している作品でしたから・・・。かたちはその作者の思いが顕れたモノですから、いろいろなかたちがあって当然ですが、USAの環境もさまざまなかたちを産み出していきます。 北欧アートが一足飛びした境界線、時期は、この平面処理にいつまでも関わらずにモダン・コンテンポラリーへと一挙に流れを変えた時期だったのではと思いました。Kiasmaの展示作品には「今」と言う時間を拠り所にした作品も有りましたし、現在、我々の身の回りにある総てのモノをアートの対象にして、アートとして自己主張している。音、映像そして作品を触る等々。五感に訴えるモノは総て対象になっています。
 モダン・コンテンポラリーはますます大衆化していくアートかもしれません。


2000年03月20日月曜日 作:村上精紀

免税店


海外旅行者が利用するのに空港の免税店があります。空港の在る国の税金(商品に付加されている)が免除されていると言うことで「免税店」と呼ばれます。空港免税店の品物だから「安い」というイメージがありますが一概にそうとも言えない気がします。一昔前、空港の免税品は、日本国内の物価が高いこともあって安かったと実感できましたが、最近は事情が変わってきてモノによっては日本で購入した方が安い商品もあります。たとえば酒などのように平衡輸入で日本国内に入ってくる品物は海外の値段とそれほど大差なくなっています。空港免税店は出国客が利用できる店ですので、利用客も買い物の必要性があるか、或いはその国で 最後の買い物場所という事で品物を購入しようとします。免税店側もそれなりの商売ができます。品物の値段にはいろいろな要素が含まれますので、同じ品物でも国が変われば値付けもそれぞれ違ってきます。 
 EU圏内を飛行機で移動すると空港免税店の様子が昨年前半ぐらいから変わってきた事に気づきます。それは、EUに加盟している15カ国に関して言えることですが、空港内免税店がある時は免税店、ある時は非免税店として品物を販売するようになりました。昨年はじめに日本でも新聞記事になりましたが、圏内の国民は圏内の海外旅行をしても免税で商品を購入できなくなる。と言う記事でした。圏内は一つの経済圏となったので、海外旅行も国内旅行扱いになったのです。この事はEU圏諸国外の旅行者にも適用されており、圏内を移動するときは空港免税店で買い物をすると税金を払う事になります。たとえばパリからマドリッド行きの搭乗券を持って免税店で買い物をすると、レシートには「TAX」の項目があります。EU圏内の免税品を購入できるのは圏外の都市へ移動するときになります。呉々もご注意を!

2000年01月05日作:村上精紀


モダン・アート


 最近,モダン・アートと呼ばれる芸術(?)作品に目覚めています。先日はチューリッヒのクンストハウスを訪れて,うきうきする時を過ごしました。15世紀のドイツ,スイスの作品から19世紀,20世紀に活躍した現代作家の作品が常設されていました。今回約2ヶ月間,常設作品の置かれている部屋に現在活躍する若手作家の作品も置かれていました。明らかにモダンな作品です。思わず見落としてしまいそうな作品が多いのです。何故なら,展示されている場所が常設作品の部屋ですので,鑑賞者も常設作品しか目に入らない。絵画作品だけが目に見えていて,それらが置かれている空間は目に入らない。これは不思議な事ですが,我々には興味の有る対象しか見えていないのです。動きの有るモノ(獲物)しか見えないカエルと一緒です。鑑賞者のその弱点を狙ったのが,モダン・アートの作品達のようです。クンストハウスの学芸員の意図のようです。常の挑戦的な作品がモダン・アートには多い。「お前に俺の作品(気持ち)が分かるか!」 そして,常に目で観られる事だけは拒否しています。頭だけで分かった風な事は言わないでくれと言っているようです。何故なら,モダン・アー トに接する時,作品の多くは鑑賞者に参加を強要します。鑑賞者が作品に参加して初めて「完成」,と言う代物が多いのです。このような作品が「アート」と呼ばれるならば従来の作品とは全く異なった芸術です。目で観るだけではなくて,五感を使って身体全体を作品にぶつけなければ解らない。作品自体が,その置かれる空間を意識している。そして,その空間に入って来る鑑賞者をも作品の一部にしてしまう。暗闇も,狭い通路も,ゴミも,釘一本さえ芸術になり得るのです。 観る側の鑑賞者が五感を酷使して作品を鑑賞したとき,恐らく様々な感情が沸き起こります。不快感や快感,嫌悪感等々。我々にとって一見マイナスの感情として捉えられるモノを,鑑賞者自身が客観的に処理できれば、自分自身の再発見と言う楽しいアート鑑賞になります。


1998年08月03日月曜日 作:村上精紀



ミケランジェロ


イタリア、フィレンツェにフィッツィ美術館が在る。 ルネッサンス時代の作品がたくさん展示されており、その中にミケランジェロの「聖家族」と言うタイトルの絵が
有ります。私の気に入っている絵です。
 ミケランジェロはルネッサンス(文芸復興)と言われる16世紀に活躍した芸術家であり、それまでには表現されなか った「聖家族」を描いた89才の人生は、常に自分自身を表現するために作品を生みだしていた感じがします。23才年上のレオナルド・ダ・ヴィンチと比較されるときマイナスのイメージで語られる。 偏屈物で、社交性はないので孤独。システィナ礼拝堂天井画の制作(1508〜1512)依頼があった時も、一時、法王と意見が合わず、制作が中断している。自己主張の強い芸術家だった。現代の感覚で言えば、ごく当たり前の事であり、芸術作品はその作者の自己表現です。ゴシック様式時代までの神中心の社会は、文芸復興・人間復興等と言われるルネッサンス時代になり、ミケランジェロが初めて人間を表現したと思います。  「聖家族」は、画面の後方に裸の子供たち(翼のない天使)を配置し、前面に、聖家族を描いている。一番手前に、マリア。彼女は、お尻を床に付けて横座りしている。その、背後にキリストとヨゼフ。キリストを抱いていたヨゼフが、マリアの背後からキリストを手渡そうとしており、マリ アは右に身体を捻って、両腕を伸ばしてキリストを受け止めている。窮屈そうなポーズである。この事はマリアが何か別の事をやっていて、近づいて来たキリストとヨゼフに直前まで気づかなかった。そのようなポーズである。それまでキリストはヨゼフと一緒に居て遊んでいたが、ちょっと寂しくなって、甘えたくてマリアの方へやって来た風である。早くマリアに抱かれたがっているキリストの両腕の表現。それまでの時代に描かれた3者の関係は、常にマリアとキリストが一緒にいて父親のヨゼフは脇に置かれていた。ところが、ミケランジェロの「聖家族」では、キリストはマリアとヨゼフの腕の間に居る。マリアと常にいたはずのキリストが、マリアに手渡されるまでの間、ヨゼフと一緒に居たことが想像できるミケランジェロの「聖家族」。「聖家族」に、何故、引かれるかと言うと、その構図や色使いではなくストりー性である。   16世紀当時の人たちはこの作品を見て驚いたと思う。


1998年05月05日火曜日 作:村上精紀