イスタンブール

〜 アジアと欧州の交差点 〜

 

2003年秋のある日曜日の夜9時から「世界ふしぎ発見」を見ました。本日のテーマはトルコと日本の友好の歴史の話です。帝政オスマントルコ時代、南下政策を採るロシアへの対抗上、日本との友好を求めて来日したトルコ軍艦「エルトゥールル号」の事故と、それを助けた日本。日露戦争においては、日本の勝利に我が事のように熱狂し、産まれた子供に「トーゴー」「ノギ」と名付けるのが流行ったというトルコ。エルトゥールル号の事故に衝撃を受け、義援金を募ってオスマントルコの首都コンスタンティニエへと訪れ、時のスルタンに謁見し、そしてその一生を日本とトルコの友好に尽力した日本人、山田寅次郎(同時に、日露戦争においてはコンスタンティニエにて、ロシア黒海艦隊の同行を監視する役目を果たしていました)。

偶然ではありますが、「エルトゥールル号」の遭難者をトルコに送り届けた日本の船に、後の日本海海戦にて活躍する「秋山真之」が乗船していました。共和制に移行したトルコの初代大統領:ケマル・パシャ(アタチュルク)が山田寅次郎の生徒であったとは・・・・・・・。その恩義を忘れず、イランイラク戦争時に旅客機を飛ばし、テヘランにいた 200人の日本人を脱出させたトルコ航空。情は人の為ならず、とは良く言った物であり、そうゆう友好関係というのは大切にしたいものだと切に思いました。

アジアと欧州の交差点であり、ビザンチン帝国とオスマントルコ帝国という2大帝国が残した栄光の数々が、その壮大な歴史を物語る町、それがイスタンブールなのです。


- イスタンブールの歴史

トルコ共和国の現在の首都はアンカラですが、帝政オスマントルコ時代の首都がコンスタンティニエ(現イスタンブール)であり、それ以前にはコンスタンティノーブルとして1000年以上に渡ってビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都でありました。

一般的に知られているイスタンブールの歴史は、紀元前のギリシャ人の植民都市であったビザンチウムから始まると言われています。ビザンチウムを建設したのは、ギリシャ人のビザスと言われ、BC660年頃にボスポラス海峡と金角湾に挟まれた現在の旧市街の高台に城塞を建設しました。そのためこの町はビザンチウムと呼ばれるようになったのだそうです。

AD330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が首都をローマからビザンチウムに移した事により、町は「コンスタンティヌスの町」という意味であるコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)になりました。AD395のローマ帝国分裂以降は、東ローマ帝国の首都となります。

やがて、コンスタンティノープルはオスマントルコの首都となり、ギリシャ語で「都市へ」を意味する「イェス・ティン・ポリス」という言葉からイスタンブールと呼ばれるようになっていきます(ただしオスマントルコ帝国における正式文書では、その後も「コンスタンティニエ」という名称が使われていました)。


- 東ローマ帝国領、コンスタンティノープルの時代

東ローマ帝国を代表する皇帝がユスティニアヌス大帝です。古代ローマ帝国の再建を目指し、ベリサリウスを将とする大遠征軍を送り、AD534にアフリカのバンダル王国、AD555にイタリアの東ゴート王国を滅ぼし、さらにスペインの西ゴート王国からイベリア半島南部を奪取しました。地中海世界は東ローマ帝国により、再統一されたのです。東へ向かっては、ホースロー1世の治世において最盛期を現出したササン朝ペルシャと戦い、一進一退の抗争を繰返します。

また、ユスティニアヌスがトリボニアヌスら 16人の法学者に命じて共和制以来のローマの法律/判例・勅令/法律学説等を集大成させたのが「ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)」です。AD534年に完成したそれは「法令集」「法学提要」「法学論集」「新勅令集」の4部からなり、近代欧州法制の土台となりました。また、ビザンチン帝国の代表的な建築物とされる「聖ソフィア寺院」を完成させました。AD537年に完成した高さ56mの青銅のドーム屋根はギリシャ正教会のシンボルとなります。現在の4本の尖塔は、オスマントルコ時代にモスクに改装されて以降に建造された物であり、正教の教会時代の物ではありません。

東ローマ帝国では6世紀頃まではラテン語が優勢であったのが、ユスティニアヌスの死後、欧州との関係は次第に希薄化し、ギリシャの伝統が強まります。それに従い次第にギリシャ語が優勢となり 7世紀には公用語となります。宗教的にも、レオ3世の時代に聖象(偶像)崇拝論争を巡ってローマカトリックと対立し、分離する事になります。東ローマ帝国は、やがてギリシャ時代の町の名であるビザンチン帝国と呼ばれるようになっていくのです(公式には、あくまでも単に「ローマ帝国」です)。

軍管区制度と屯田兵制度により自作農民が主体となったビザンチン帝国では、当初は欧州のような封建制は産まれませんでした。また、皇帝はオリエントやペルシャの影響を受け、世俗的権威だけでなくギリシャ正教の首長として宗教的権威をも合わせ持つ専制君主制が確立しました。欧州では自然経済的傾向が強かったのに対し、ビザンチン帝国では都市を中心とする商工業が盛んであり、この時代、コンスタンティノープルは人口100万の国際都市として、アジア、アフリカ、欧州の通商を支配しました。

文化の面では、独特のギリシャ正教美術を生みました。建築では、大ドームやアーチの多用し、内部を美しいモザイクやフレスコ壁画で修飾したビザンチン様式と呼ばれる物を残し、後にイスラム世界に影響を与えました。コンスタンティノープルの聖ソフィア寺院、ラベンナの聖ビターレ寺院などが有名です。ベネチアにある聖マルコ寺院も、11世紀にビザンチン様式に改装されており、ベネチア市のシンボルとなっています。ビザンチん文化はギリシャ・ローマの古典の保存を重視して自由に発展せず、対象を極端に形式化する傾向が強く独創性には乏しい面もあります。しかしビザンチン帝国で保存されていたギリシャ・ローマの古典がやがて欧州に伝えられ、イタリア・ルネサンスの下地となりました。

ビザンチン帝国はその後、強力な皇帝の下で若干の旧領を回復する事もありましたが、長い時間をかけての衰退へと向かいます。

サラセン帝国の攻勢

7世紀以降、新興のサラセン帝国によって領土を侵食され縮小後退します。カルタゴ総督ヘラクレイオス親子の開いたヘラクレイオス王朝時代の636年、ヘラクレイオス1世(子)はサラセン帝国軍に破れシリア・パレスチナを喪失します。その後も北アフリアの領土を全て奪取され、AD674 〜 678にはコンスタンティノープルを攻囲されます。南北東を海で囲まれたコンスタンティノープル、守るに易い街です。唯一、西方だけは地続きであり外敵の侵入を受けやすかったのですが、だからこそ西方には幾重にも城壁が築かれ、特にデオドシウスの二重城壁の完成以降は西方への防備も万全となりました。サラセン帝国の攻囲を跳ね返したのも、この城壁があればこそ。そして海戦において猛威を発揮した新兵器:「ギリシャの火(一種の火炎放射機)」のおかげでした。

AD717 〜 718年に再びサラセン帝国はコンスタンティノープルを攻囲しますが、その危機にレオ3世(在位716 〜 740)が反乱を起こして即位し、イサウリア王朝を開き、AD718年にサラセン帝国の攻囲軍と戦って勝利します。この失敗によりサラセン帝国ウマイヤ朝は急速に衰え、以後は大規模な侵入はなくなります。レオ3世及び息子のユスティニアヌス5世の治世において、ビザンチン帝国は大いに領土を回復します。

ビザンチン帝国マケドニア王朝

サラセン帝国ウマイヤ朝の衰退後も危機は去らず、アラブ人やブルガリア人その他と戦い続けます。その時に帝国の危機を救ったのがマケドニア王朝のバシレイオス2世(在位976〜1025)です。1014年7月、宿敵であるブルガリア人を決戦にて粉砕し、捕虜とした15000人の目を潰してブルガリアに送り返した事から「ブルガリア人殺し」の異名を取ります。1018年にはブルガリアを併合し、ビザンチン帝国は再びバルカン半島の覇権を獲得したのです。

セルジュークトルコの勃興と十字軍

11世紀になるとセルジュークトルコの侵入に苦しみ、1071年の「マンジケルトの戦い」に敗れ、小アジアの領土の大部分を奪取されました。セルジューク・トルコから聖地エルサレムを奪回する事を目指したはずの十字軍も、その第4回ではベネチアにそそのかされ、王家の内紛を利用してビザンチン帝国を襲撃、コンスタンティノープルを占領し、AD1204年にベネチアの植民国家としてラテン帝国を建設する始末です。ビザンチン帝国の遺臣は小アジアにニケーア帝国を建設、ベネチアの宿敵であったジェノバとアナトリア高原に興ったオスマントルコの助けを借りて逆襲に転じ、AD1261年にミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回してビザンチン帝国を再建するものの、その対外的な威光はすっかり衰えていました。

オスマントルコの勃興とコンスタンティノープルの陥落

14世紀に入っても北からはセルビア人、海上からはイタリア都市国家、そして何よりオスマントルコ帝国の脅威に曝され続けます。15世紀、バルカン半島を侵食したオスマントルコにより、ビザンチン帝国は左右から挟撃される形になります。1422年のムラト2世による攻囲以来、数度に及んだ激しい攻防戦の末、1453年、第7代スルタンのメフメト2世がコンスタンティノープルを征服し、東ローマ帝国はその約1000年の歴史の幕を閉じたのです。


- オスマントルコ帝国領、コンスタンティニエの時代

コンスタンティノープルを征服したメフメト2世(在位1444, 1451 〜 1481)は、それまでのエディルネ(アドリアノープル)から、この地に遷都します。長引いた戦争により激減していた人口の回復を狙い、小アジアのトルコ系民族だけでなくギリシャなどの周辺諸国からも移住を積極的に奨励します。コンスタンティニエのイスラム化は急速に行われましたが、宗教に関しては寛容であり、キリスト教徒の自治組織を認め、ユダヤ教も容認しました。また、ビザンチン系の学者を保護し、依然として学芸は栄えました。こうしてオスマントルコの首都となったコンスタンティニエは様々な宗教や民族の融合し、学芸の華栄える当代きっての国際都市へと発展を遂げるのです。

13世紀に小アジアに誕生し、第1次世界大戦の敗北によって消滅したオスマントルコ帝国、その6世紀以上に渡る歴史の中で、最も有名なのが第10代スルタンであるスレイマン大帝です。スルタンとはアラビア語で支配者を意味する言葉から来ており、神権的専制君主の自称として使われ、その後は世俗的権威者を意味するようになります。オスマントルコ帝国では、1517年以来、宗教と世俗の最高権威者の呼称としてスルタンを使用しています。17世紀の第20代スルタンであるスレイマン2世と区別するため、スレイマン1世と呼ぶ事もありますが、15世紀にもスレイマンという支配者がいたためまぎらわしいので、日本では一般には「大帝」と呼ばれています。スレイマン大帝の時代のコンスタンティニエの人口は少なく見積もっても 40万。これは同時期のパリが 20万、ロンドンやローマが10万程度と推定される事と比較すると傑出した大都市であったと言えます。

スレイマン大帝は、コンスタンティノープルを攻略したメフメト2世の曾孫に当ります。26才で即位した彼は、行政組織を整備し独特の軍事封建性を整備し、法律を整えて法典を発布し(それゆえ、トルコでは「立法者」と称された)、中央集権体制を整えオスマントルコ帝国をその絶頂へと導きます。名将としての誉れも高く、46年にも及ぶ(オスマントルコの歴史で最長)在位期間に、欧州へ10回、サファビー朝ペルシャへ3回の遠征を行い、西はハンガリーから東はイラクイランに及ぶ大帝国を実現したスレイマン大帝。欧州では畏怖を込めて「壮麗なる者 = 壮麗王」と称されました。

即位の翌年である1521年、曾祖父であるメフメト2世の破れた「ペオグラードの戦い」の屈辱を晴らすべく、第1回の遠征においてハンガリーの要衝ナーンドルフェヘールヴァール、つまり現在のペオグラードを陥落させます。これを足掛かりに、1526年には「モハーチの戦い」にてハンガリー軍を殲滅、1541年に最終的にハンガリーを征服し、中世ハンガリー王国を滅亡させます。ハンガリーの次に宿敵となったハプスブルグ家の都、オーストリアのウィーンを攻略するべく何度も遠征軍を送り、特に1529年の第4回親征においては大軍を以て包囲していますが、結局、念願のウィーン攻略は成りませんでした。

1538年、プレヴェザ海戦にてスペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合艦隊を撃破し、クレタとマルタを除く地中海東域の制海権を獲得します。アフリカ北部海岸にも領土を獲得し、北においては黒海も完全制圧します。

その治世の終盤には高齢という事もあって体調を崩しますが、なおウィーンへの執念を燃やし続けます。1566年5月に再び、そして最後の親征に出立します。既に占領したハンガリーではありましたが、都市によっては紛争が続き、ハンガリーが奪回した城塞がいくつかありました。それを攻略しつつウィーンへと向かいますが、秋になる頃に体調は悪化し、シゲットヴァール攻略中の9/6日の夜から翌日未明にかけて、その陥落を目前にして息を引き取りました。72才であったそうです。

私は男ですので、ハレムと聞くとワクワクしますが(笑)。アラビア語で「女子専用の居室」という意味だそうです。ハレムはスルタンの妃とその家族の住居ですが、多くの女官や女奴隷も居住し、一般の男性は立ち入り禁止でした。入る事が出来たのはスルタンとその息子達、警備員と外部との連絡係であった黒人の宦官だけでした。スレイマン大帝の孫のムラト3世の時代に、現在の規模のハレムが完成しています。ハレムの女性は特別な時以外は外出を許可されず、王子達も異母兄弟達と一緒にここで暮らしました。特殊な環境にて養育される王子達が君主に相応しく成長するのは難しかったとも言います。その中から、ただ一人後継者が選出されるのですが、後継者が決まると他の男兄弟を皆殺しにし、跡目争いの目を摘むという事が行われたそうです。

歴代スルタンの妃の中で、もっとも名高いのがスレイマン大帝のヒュッレム妃でしょう。スレイマン大帝は最初、モンテネグロ出身の女奴隷から娶ったマヒデヴランを最愛の妃としていました。しかしロシア出身の女奴隷であるヒュッレム(フルレム)が来て妃となると、激しい抗争となります。最終的にはヒュッレムがスレイマン大帝の愛を独占する事に成功し、マヒデヴランはハレムを追われる事になったのです。当初、妃達は家族と共に旧ビザンチン帝国時代の宮殿に住まわされており、オスマントルコのトプカプ宮殿は男だけの宮殿だったのですが、1541年に旧宮殿に火災が起こり、またヒュッレムの強い希望もあってトプカプ宮殿に移り住みました。

絶世の美女であったという話もありますが、現在のトプカプ宮殿博物館に残る肖像画を見ると、きつそうな印象のある顔だちです。エジプト最後の女王であるクレオパトラや唐の玄宗皇帝の愛妃であった楊貴妃なども、絶世の美女というよりは、知的で才気溢れる魅力の持ち主であったと言われています。恐く、ヒュッレムもそうだったのではないでしょうか。実際「ヒュッレム」というのは本名ではなく「陽気な、愛嬌のある」を意味する愛称です。

ヒュッレムは4人の王子と1人の王女を授かりましたが、その才気を以てスレイマン大帝の跡目争いに介入します。マヒデヴランの子を陰謀によって抹殺して排除し、自分の王子の中で期待をかける者を世継ぎにしようとしますが、期待をかけた2名はどちらも跡目を継ぐ事なく死亡してしまうのです。残ったのは2名の凡庸な王子だけであり、しかもヒュッレムの方がスレイマン大帝より先に亡くなってしまい、2人は母亡き後、スルタンの地位を巡って争い、一時は内乱状態にまでなってしまうのです。結果は無能で大酒飲み「酔いドレ」との異名を取ったセリムが勝利し、スレイマン大帝亡き後にセリム2世として即位しします。

セリム2世の時代、欧州キリスト教連合艦隊とのレパントの海戦に完敗します。そしてスンニ派のオスマントルコとシーア派のペルシャのサファヴィー朝の間には紛争が絶えませんでしたが、セリム2世の後を継いだムラト3世の時代、オスマントルコが初期に奪取した領土の多くはサファヴィー朝のアッバース1世の治世(1587 〜1629)に奪回されるなど、この時期を境にオスマントルコ帝国は凋落の道を歩むのです。

ビザンチン帝国を滅ぼしたメフメト2世が建設し、歴代スルタンの居城とされたのがトプカプ宮殿です。トプカプとは「巨砲」の意味であり、城門の一つに巨大な大砲が設置されていた事から、18世紀頃からこの名で呼ばれるようになったようです。近代に入り、オリエント急行の始発駅が隣接した区画に造影された事でも知られています。トプカプ宮殿はまた、膨大な陶器のコレクションを蔵している事でも知られており、陶器マニアにとっては「トプカプ宮殿に行く」とは陶器を見に行くという意味でもあるそうです。

数有るイスタンブールのモスクの中でも、とりわけ圧倒的な威容を誇るのが「スレイマン寺院(スレイマニエ・ジャーミィ)」です。モスクの最高傑作との呼び声も高いそれは1543年に完成しました(スィナンがエディルネに建設した物が最高傑作であり、スレイマニエ・ジャーミィは2番とする意見もあります)。金角湾に面して立っており、中央ドームの直径:27.5m、高さ:53m、一辺:60m近くある正方形の巨大なモスクです。モスクを設計したのはミマール・スィナンであり、スレイマン大帝により宮廷建築総監督に任じられ、その栄華に華を添えました。スレイマン大帝の没後も 3人のスルタンに仕え、スィナン式建築様式を確立しました。

97才の生涯においてオスマントルコ全土に建造した作品は300以上、コンスタンティニエだけでも改修を含めて100以上の建造物を手掛けています。その死後に建造されたモスクは、スィナン式の模倣に過ぎないそうです。スレイマン大帝とヒュッレムは、スレイマニエ・ジャーミィの敷地内にある霊廟に葬られています。スレイマン大帝の霊廟は、流石に壮麗王と称された彼に相応しく、8角形の壮麗な物です。ヒュッレムの霊廟は比較すると質素ですが、帝国の歴史に数有るの妃の中で、単独の霊廟を持つ者はヒュッレムの他にはいないそうです。


- イスタンブールの現在

第一次世界大戦の敗北により小アジアの小国へと没落したオスマントルコ帝国。その後、ケマル・パシャ(アタチュルク)によって 1923年にはアンカラを首都とするトルコ共和国が成立しました。しかし首都ではなくなった現在でも、イスタンブールはいぜんとしてトルコ最大の都市であり、ビザンチン帝国とオスマントルコ帝国という2大帝国の残した歴史的遺産が世界中の観光客を魅了しています。

東端から歴代スルタンの居城であった「トプカプ宮殿」、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝の建造した大聖堂がモスクに改装された「アヤソフィア博物館」、内部の青いタイルの美しさから「ブルー・モスク」と称される「スルタンアフメット・ジャーミィ」、そして旧市街丘陵の中央にひときわ高くそびえる「スレイマニエ・ジャーミィ」、etc。イスタンブールは歴史の街です。一方、若者達や富裕階層が集まる賑わう新市街。新旧のイスタンブールは重なり合って街の魅力を高めているのです。


* 参考

欧州の火薬庫:コソボの戦い & バルカン紛争

コンスタンティノープルからの使者

http://home.turkey.or.jp

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