チェチェン紛争

〜 コーカサス:遅れてきた民族自決主義 〜

2004. 9/27th

1980年代、外貨獲得の柱であった石油輸出価格の低迷、農業の不振、そしてアフガニスタン戦役の失敗など様々な要因が重なり、共産主義体制下で強力な中央集権国家であったソビエト連邦は激しく動揺します。それは連邦各地における民族運動の激化となって表面化しました。バルト3国や中央アジアのように公然とモスクワへの対決姿勢を露にする共和国、あるいはコーカサスのアルメニアとアゼルバイジャンのように、その地域の民族同士で対立が激化した地域、さらに生活の悪化を不満とするシベリアの労働者の大規模デもやストライキなど、ソ連が健在であった頃には有り得なかった事態が相次ぎます。

1991年12月、ソ連は消滅し15の共和国へと分離しましたが、それは事態の終息化を意味する物ではありませんでした。実質的にソ連の後継者となったロシアですが、そのロシアからさらに分離独立しようとする民族運動が活発化します。その一つがチェチェン紛争なのです。


- チェチェン人の歴史

チェチェン人はコーカサス(カフカス)と呼ばれる、黒海とカスピ海とに挟まれた幅500km ほどの地峡に位置する山岳民族の1つで、チェチェン(Chechen)は民族名を指し、国名はチェチェニヤ(Chechnya)共和国と言います。チェチェン人やイングーシュ人の言葉は元々はコーカサス山脈の土着言語であるナク語系であり、中世の頃チェチェン語とイングーシュ語に分かれています。歴史的には 5000 - 6000年前からあり、インド・ヨーロッパ語族の古さにも匹敵する言語ですが、文字は無かったため読み書きの手段はロシア語です。

宗教は17世紀後半から18世紀にかけてイスラムを受け入れており、穏健で寛容なスーフィー派のムスリムです。険しい山脈に遮られ交通路も貧弱なこの地には他国の影響力は及びにくく、古来よりの家族や氏族を単位とし年長者への敬意と服従を特徴とする家父長制社会を長い間、維持していました。ロシア帝国とソ連の時代はずっと植民地状態にされており、現在のチェチェニアはコーカサス山脈中部の北斜面からその北に広がるカルムイク平原にかけ、東西約120km、南北約150kmを占める小国です。

15世紀になり、北にロシア、南西にオスマントルコ、南東にサファヴィー朝ペルシャと3つの大国が覇権を争うようになり、その荒波に翻弄されてきたのがコーカサスです。1475年、クリミア半島を制圧したオスマントルコはさらにコーカサスへと触手を伸してきます。それに対し、コーカサスの山岳民族は1552 〜1557年にかけてモスクワ大公国(ロシアの前身)の雷帝イワン4世に支援を求めます。

イワン4世は支援を約束したものの、コーカサスの豪族の娘を娶り、コサックの屯田兵を派遣した程度です。16 〜18世紀にかけてトルコとペルシャが抗争を繰返しますが、山脈の南に位置するグルジアなどは争奪戦の対象になったものの、北側には影響力も及んでいません。4〜5千m級の山々が連なるこの地には、大規模な軍隊を派遣しても補給を維持できなかったのです。

18世紀中頃、エカチェリーナ2世がロシア帝国皇帝に即位する頃から南下政策が本格化し、軍の長期駐留を可能とする町や要塞が建設されます。その後もロシアの南下は規模を拡大して続けられ、この地の族長達を懐柔しロシア支配の傀儡にしようとしますが、長年、隔絶した環境下で育まれた氏族社会の結束は堅く、思い通りにならない事に苛立ったロシアはやがて軍事力に訴えます。

それに対し、コーカサスの民は1785 〜1859年に渡るゲリラ戦の末、チェチェニアはようやくロシアの支配下に入ったのです。キリスト教(ロシア正教)であるロシアの支配に入る事を嫌った人達は1860年代に大挙してトルコへと移住し、その後にはロシヤ人やコサックが入植しました。

1887年にこの地で油田が発見され、英国、フランス、オランダなどの資本が投下され開発され、ロシアも大勢の労働者を移住させます。チェチェニアの首都グロズヌイを通過する鉄道やパイプラインはこの時期に建設されたのです。

1917年11/7日、10月革命を機会に山岳部族は独立を模索します。翌18年には北部コーカサス諸部族による「山岳共和国」の創立を宣言します。民族問題担当人民委員であったスターリンは1921年、ソ連への帰属を条件に「ソビエト山岳共和国」を認めると約束しますが、1924年には自治州へ格下げしてしまうのです。裏切られ蜂起した人々を力尽くで弾圧したスターリンですが、チェチェニアだけは屈服させる事ができず、イングーシュと合併させて「チェチェニア=イングーシュ自治共和国」を認めますが、これは政治的実態を伴わない名目的な物に過ぎず、実際にはコーカサスや中央アジアの諸地域には1938年頃からロシア語教育が強制され、ロシアへの同化教育が推進されました。

1941年6月「バルバロッサ作戦」により独ソ戦が開始されます。翌42年の「ブラウ作戦」によりナチスドイツがコーカサスへの攻勢を開始すると、これを好機とみた山岳部族は蜂起し 20000近いソ連軍人や共産党員を殺害します。しかしドイツは敗れ、スターリンによる報復が開始されたのです。1943年2/11日には「チェチェニア=イングーシュ自治共和国」の廃止が決議され、翌44年の2/23日から、チェチェニアとイングーシュの46万全ての人々がソ連秘密警察によってカザフスタンやキルギスタンに集団追放され、強制労働に従事させられたのです。「チェチェニア=イングーシュ自治共和国」の地は、北のロシアや南のグルジアに分割併合されました。

1956年7/16日、対独戦に3万のチェチェン義勇兵が参加していた事から、民族全体が利敵行為を行なったわけではないとして強制移住措置の撤回が決議され、翌57年1月には「チェチェニア=イングーシュ自治共和国」の再興が決定しますが、この22年間に彼等の人口は半減したとも言われています。

1985年に就任したミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって民主化の波が東欧、そしてソ連本土でも沸き起こると、チェチェニアでも再びソ連からの自立の模索が始まります。その渦中で台頭したのは、ソ連空軍の少将であったジョハル・ドゥダーエフでした。1991年9/6日、首都グロズヌイにて共産党系の自治共和国政府を退陣に追い込みます。10/27日に実施された選挙では、ドゥダーエフが全投票の9割を獲得して圧勝し、チェチェニア初代大統領に選出されたのです。11/1日には、ロシア連邦およびイングーシュ共和国からの分離独立を宣言します。


- チェチェン紛争

石油と天然ガスが輸出の約90%を占めるソ連(ロシア)は、カスピ海からの石油パイプラインと、この地の地政学的観点からの重要性ゆえに猛反発し 1991年11/7日、エリツィンは「チェチェニア=イングーシュ自治共和国」への非常事態宣言を下しますが、これはロシア連邦最高会議によって否決されます。しかし主権回復に向けての交渉は難航し、しかもチェチェニアにおいてもドゥダーエフ支持の民族派と親ロシア派に分裂して対立が始まります。

やがて反エリツィン勢力の駆逐に成功し独裁的権力基盤を固めたエリツィンは、チェチェニア国内の親ロシア派を扇動し軍事援助し、混乱状態を作り出した所でロシア軍正規部隊を侵攻させる作戦を実施します。1994年の夏 〜 秋にかけてチェチェニアは内戦状態に陥り、好機と見たエリツィンは軍事介入を命じる大統領令第2166号に署名するのです。

12/11日から開始された軍事介入は小国チェチェニアを侮り、戦闘経験のない若い兵士が多く山岳地域でのゲリラ戦や市街戦の訓練も受けていない2線級の戦力しか投入しなかったため、チェチェニア側の猛反撃によって進撃を阻止されます。慌ててロシアは精鋭部隊を投入するとともに大規模空爆を実施し、1995年1/19日にようやくグロズヌイを制圧しますが、ドゥダーエフは南部の山岳地帯に籠ってゲリラ戦を続け、事態は泥沼化したまま膠着状態に陥ります。やがてゲリラへの疑心暗鬼ゆえにロシア軍の軍規は乱れ始め、略奪や暴行などの犯罪が急増し、4/8 〜 4/12日にかけてサマーシキという村でロシアによる無差別砲撃により、数百人の市民が殺されるという事態にまでなるのです。

1996年、ロシアは一計を案じます。4/21日夜、和平問題を話し合うためロシア共和国のボロヴォイ下院議員と衛星電話会議を行っていたドゥダーエフを、ボロヴォイが話を長引かせている間に衛星電話の発信源を突き止め、ミサイル攻撃をかけ、暗殺したのです。カリスマ指導者を失ったチェチェニアの結束と戦闘意欲は急速に失われ、後継者として臨時大統領に就任したヤンダルビエフはロシアと和平交渉を開始し、1996年8月31日、独立問題については2001年12/31日まで先送りされる事とした「ハサヴュルト合意」によって戦争は終わりました。ロシア側のデータによれば、チェチェニアの犠牲者は10万近くになり、ロシア軍も使者3800人、負傷者18000人とという大損失を被っていました。

1996年秋の世論調査では、厭戦気分の蔓延していたロシア国民の7割が「ハサヴュルト合意」を支持していましたが、民族主義的な軍人や政治家はエリツィンへの反感を募らせていました。チェチェニアにおいても、ヤンダルビエフへの国民の支持は薄く、またシャミーリ・バサーエフのような野戦指導者は政府の管理から離れて「軍閥」と化します。1997年1/27日に実施された選挙で、軍のアスラン・マスハドフ参謀総長が新大統領に選出されましたが、各地の野戦指導者は穏健派のマスハドフへの恭順を拒否し、アフガニスタンやアラブ諸国からのイスラム義勇兵との共闘を強化するようになります。

第1次紛争当時から少数ながらチェチェニア入りしていたイスラム義勇兵ですが、和平から数年のうちに大勢、野戦指揮官の下に集まるようになっていくのです。しかし原理主義的な義勇兵と異なり、穏健で寛容なスーフィー派主流のチェチェン人には「聖戦思想」は浸透せず、1998年中頃からイスラム教徒同士の対立が激化していきます。

チェチェニアの治安悪化を見たエリツィンは再び、好機が到来したと判断し、再侵攻に向けて情報操作を開始し、ロシア国民の対チェチェニア感情は急速に悪化していきます。

1999年8/7日、バサーエフは2000の兵力で隣国ダゲスタンに侵攻します。2日後の 8/9日にウラジミール・プーチンがロシア共和国首相に任命され、8/18日にはロシア軍が出動し、8/24日までにダゲスタンからチェチェン軍を駆逐します。8/31 〜 9/16日にかけてモスクワの3ケ所とロストフ近郊の集合住宅、およびダゲスタンの軍用集合住宅で大規模な爆弾テロが続発し、犠牲者は 300人近くに達しました。犯行声明は無かったものの、ロシア内務省はチェチェン人過激派の仕業であると断定し、世論は一気に反チェチェニアへと傾きます。

8/15日、マスハドフは「ダゲスタンに侵攻したバザーエフ部隊はチェチェニア政府とは関係ない」と声明を出しましたが、これは国内を掌握できていない事を暴露しただけの結果に終りました。9/23日、プーチン首相はチェチェニアへの空爆開始を命令し、さらに 9/30日には地上部隊による大規模侵攻作戦が開始されたのです。圧倒的な火力によりロシア軍は11/27日までにグロズヌイの主要各部を制圧、バサーエフらの武装勢力は再び山岳部隊へと撤退したのです。

エリツインは1999年12/31日に辞任し、一躍、国民的英優となったプーチンを大統領代行に任命します。さらに 3/26日に実地された総選挙で地滑り的勝利をおさめ、プーチンは正式にロシア連邦第2代大統領に就任したのです。

一方、ロシアに制圧されたチェチェニアでは、2003年3/23日、マスハドフ政権の正当性を否定する新憲法制定の国民投票が実施され、同10/5日に実施された大統領選挙では宥和派のカディロフが選出されましたが、どちらの投票でもロシアによる露骨な操作が行なわれたと言われています。しかしチェチェニア側の抵抗は終らっておらず、ロシア駐留軍に対する散発的な抵抗が続いています。

バサーエフら民族派による散発的なゲリラ戦やテロ行為は続き、チェーンソウによる生きたままのロシア人捕虜の首を切った映像は、今でもWebを通して見ることができます。2002年10/23日には、モスクワの劇場で人質を採って立て籠り、結局、犯人だけでなく観客170人が犠牲になりました。2003年7/5日、モスクワのロックコンサートで発生した自爆テロでも16名が犠牲になりました。最近もカディロフは 2004年5/9日に爆弾テロで暗殺され、地下鉄構内での自爆テロや航空機2機を墜落させたテロなども発生しています。


- 露学校占拠事件

2004年9/1日、ロシア連邦内の北オセチア共和国内で発生した学校篭城事件は、3日間に渡る包囲の末、子供達を中心に 500人以上の犠牲者を出した為、結果的にはテロリストとされて更なる弾圧に大義名分を与えた事になりました。しかし「学校」という場所を選んだのは決定的に間違いですが、私は帝政ロシア以来の恨みつらみを考えれば彼らを一方的にテロリストして悪者にできるはずもなく「その気持ちは判らんでもない」と思っています。そもそも、かつて欧米列強が、アジア・アフリカの植民地の独立運動を弾圧した事と何が違うのでしょうか? 列強の立場からすれば、独立運動は「テロ」であったはずであり、活動資金を得るため結果的には奇麗事では済まない事もしていたはずです。

これは、西側列強が半世紀前に経験した事、つまり植民地の独立運動が遅れてロシアにもやって来たという事だと思います。どうしてロシアでは遅れたかと言えば(旧)ソ連時代の共産主義という特異な政治体制のせいでしょう。帝政ロシア以来の弾圧に加え、スターリンによって故郷から中央アジアへ追放され、民族消滅の危機にある人達が「ソ連崩壊の機に乗じて」と独立を志向したのも無理はありません。ただ、独立したとして自分達で国家を運営する能力が無かった事、そしてロシアが国家財政および外貨獲得においてエネルギー資源の輸出に全面的に依存しており、独立を承認する訳がない事を考えれば、独立など非現実的であったとは思います。

しかし「チェチェニヤの人達は、話し合いによりロシアと独立交渉すべきだ」「ロシアが承認しないなら、平和的に国際世論を味方につけるよう努力すべきだ」という意見については、私はこれはこれで非現実的だと思います。例えば、やはりこのコーカサスという地政学的に重要な地域が影の争点であった、NATOによる セルビア空爆(後半部分参照)があります。あの時も「チトー死後の混乱に乗じて、次々と各民族が独立を宣言した」という意味では、ロシア崩壊後と変わりません。しかし欧米各国は、セルビアを一方的に悪者にしてしまいました。

コソボ解放軍(KLA)も、チェチェニアのゲリラ以上に悪辣な連中であったわけですが、これを「民族解放の戦士」と賞賛していました。何故でしょう? ユーゴの混乱の時には、次々と独立を承認したのにロシアでは認めす、KLAを「民族解放の戦士」と持ち上げておきながらチェチェニアのゲリラを「テロリスト」と色分けするのは整合性がありません。

国際社会などそんなもんであり、結局、誰だって自国の利益(国益)が一番なのです。特にコーカサスのように戦略的に重要な地域においては、現地住民の苦しみなんて2の次でしょう。「何を言っても聞いてもらえない。国際社会なんて、どうせ自国の国益しか考えていない」と絶望すれば、一部の過激な連中がテロに走ったとしてどうして責められましょう? セルビア空爆でも、モスリムの難民が急増したのは実際には空爆の開始以降である事が判っています。空爆という反撃のしようもない手段で攻撃されたセルビア側が、その絶望をモスリムに叩き付けたのです。

そしてロシアはNATOの戦術を取り入れ、チェチェニア紛争では空爆を多用しています。チェチェン人にしてみれば、テロ以外にどのような手段があるというのでしょうか?「テロリストは、テロ自体が目的であり、政治的背景など無い」との意見もありますが、目的の為に戦いを始めたはずなのに、戦いを通して蓄積された憎悪により、やがて戦う事が目的その物になってしまうというのも普遍的な現象であり、やはりそこに至るまでの歴史的政治的背景を無視する事はできないのです(だからといって「学校」を選んだ事は容認しません)。

そして今回もロシア当局のなりふり構わぬ情報操作が見られます。「治安部隊突入後の戦闘を一切放送しない国営テレビ」「政権に批判的な紙面展開したイズベスチヤ紙編集長の解任」「外国人記者の逮捕」はては「チェチェン紛争に批判的な女性記者の毒殺未遂事件」まであります。この女性記者は「ノーバヤ・ガゼータ」紙のアンナ・ポリトコフカヤ氏であり 9/1日、事件現場に入ろうと南部ロストフに向かう飛行機の中で、お茶を飲んだら気を失い、現地の病院で治療を受け、意識を回復したが医者は絶望的だったと話し、上からの命令で検査記録を破棄したと言います。記者はモスクワの空港から3人の男が尾行していたと言います。またロシア当局が犯人に10人のアラブ人と一人の黒人がいたと発表していますが証拠は一切示されず、また人質の証言から、黒人というのは顔を黒く塗った白人と判明しています。

国庫収入や外貨獲得をエネルギー資源に依存するロシアのプーチン大統領と、資源の輸出先である欧州の今後の関係においても、エネルギー資源が豊富でかつパイプラインが走っているコーカサスは焦点です。表向きは人権問題を理由に欧州諸国はチェチェン紛争を巡ってロシアを批判していますが、実際にはエネルギーの安定供給こそが問題でしょうし、チェチェン独立派指導者マスハドフ氏のスポークスマン、ザカーエフ氏は英国に亡命しており、英国はロシアの身柄引き渡し要求を却下しています。遅れて来た民族自決主義の地であるコーカサスの前には、まだまだ茨の道が続いている事でしょう。


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