2004. 4/7th
織田信長は、弱小とはいえ戦国武将の家に生まれ、先祖の代からの家臣団がいました。柴田勝家、丹羽長秀、林道勝などは信長の父、信秀の頃からの家臣です。徳川家康を出す松平家は三河の国人であり、やはり先祖代々に仕えてきた譜代の家臣団を有していました。
これに比較し、成り上がり者の豊臣秀吉はこうした先祖の代からの家臣団があるわけもなく、家臣団を外部から招聘したり、手元で育てたりして形成していきます。前者で有名なのが、野武士であった蜂須賀小六や軍師として名高い竹中半兵衛や黒田官兵衛(如水)。後者には、石田三成、福島正則、加藤清正らがいます。そうゆう豊臣政権において、特に政務の実務運営を担当したのが近江出身の官僚達であり、その筆頭が石田治部少輔三成です。
- 石田三成
石田三成は官僚(文官)です。それゆえ「命令に忠実に与えられた仕事をこなす」のは上手くても、自分が主導して国家を統治運営できるか怪しい人物であるように思っています。
官僚としての有能さには疑問の余地はありません。実際、秀吉の九州討伐によって領国を縮小された島津氏へ戦後処理係として派遣された時、財務の専門家として(それが複式簿記であったかどうかは判りませんが)帳簿の付け方を伝授したりと、その状態でやり繰りする方法をアドバイスしてもいます。軍事においても、戦場における武勇や戦闘指揮では特筆する所はなくとも兵站の名人として知られています。この辺りは九州の覇者である島津攻めにおける見事な補給の段取り、文禄の役において朝鮮攻めの兵站基地として博多の町割り奉行を務めたり、現地においても兵站線が伸びきっており、明の軍勢と戦えない事を見越して戦線を縮小し、これを迎え撃つ作戦を立てて成功させた事などからわかります。また、決して秀吉の腰巾着であったわけでもなく、豊臣家のためを思えばこそ朝鮮出兵についての秀吉の誤りを指摘する書状も残っています。しかしこうした官僚としては高い資質である有能さ、高潔さ、生真面目さ、国家の頂点として君臨する為には必ずしもプラスとは言えません。
歴史とは「勝者によって作られる物」です。三成に関しても勝者たる徳川によって都合の良いように歪曲捏造がなされている面もあり、豊臣家を滅ぼした奸臣とされてしまっています。酷い捏造になると、秀頼は三成の子だとする物まである。朝鮮半島にいた三成が淀君と不義を為せるわけがないのですが・・・・・・・
しかし石田三成は、自分の近江の国の領地では善政を行っていたという史料もありますし、領民の評価は後世まで良かったとも言われています。その領国経営は、規則や組織には厳格しく公平であったと言われる反面、三成以前の領主に対する領民の態度について「かつての主君なんだから、道ですれ違う時におじぎする程度でよいのだから敬意を払いなさい」といったような事を述べた書簡も残っています。そしてこれは私の好きな話ですが、ハンセン氏病であった舅の大谷刑部吉継と同じ器でお茶を飲むのを誰もが嫌がる中、一人平然と飲み干した事からもわかるように、冷血漢でもない。しかしこれはら全てその実務能力が「あくまでも官僚」「太閤殿下の威光を背景として」であった事を示しているように思われます。
- 石田三成、その限界
一領国の経営と、国家の統治は違うのです。官僚ならそれでよいのですが、政治家であるなら、えげつない陰謀の一つや二つできなければダメなのです。これは私の持論ですが「叩いてもホコリも出ない政治家なんて、二流だ」と思っています。それは例えば、関が原の戦いに現れています。維新後、明治新政府はドイツから軍政を導入しようとします。確か、メッケルでしたか、関ヶ原の布陣を一目見て「西軍の勝利」と言ったのですが、裏切りが出て負けた事を聞かされ「なるほど、政略か。それはまた別の話だ」と言ったという逸話が残っています。純軍事的には勝てるはずだったのに政略/陰謀で負けた。官僚と政治家の違い、地方政府と中央政府を統治する事の違いだと思います。こうして、秀吉の家臣の石田三成らの文治派と、加藤清正らの武断派の対立が激化する間隙を付き、巧みに武将派を取り込んだ家康が、次の天下を手中にする事になるのです。
関ヶ原では、西軍は東軍より先に布陣を完了し、しかも敵を包囲する体制を整えていました。特に毛利の軍は東軍本陣の後方にあり、この大軍が南宮山を駆け下りて家康本陣に突入していれば結果は逆になったと思われます。しかし毛利の分家、吉川家は徳川の世が来る事を予見し、本家の本領安堵を条件に家康と密約を結んでおり、動かなかったのです。戦後、吉川家の意に反して徳川は毛利本家を取り潰し、吉川家にのみ功を認めて36万石を与えようとしたのに驚き、その36万石を本家に譲るよう家康と交渉したという経緯があります。領国を1/3にされた毛利をこれを深く恨み、正月には家老と主君の間で倒幕について「そろそろ如何でございましょう」「まだ、その時ではない」という会話を交わすのを慣習としていたそうです。「毛利のこの怨念が、やがて明治維新の起爆剤となった」とも言われます。