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実は救国の英雄、ドラキュラことヴラド3世

英雄ドラキュラ

共著 by Yapple02 & Nishitatsu1234

 

何度も映画化された「吸血鬼ドラキュラ」のモデルは 15世紀ワラキア公国(現ルーマニア南部)の大公ヴラド・ツェペシュである事は、多くの人が知るところでしょう。ヴラド3世、もしくは数え方によっては 4世と呼ばれます。


- ヴラド3世、その生い立ち

とどまるところを知らぬオスマントルコの侵攻に曝された 15世紀のバルカン半島。当時のワラキア君主は世襲制であっても長子世襲ではなく、だれが君主になるか血なまぐさい争いが繰り広げられていました。ヴラド・ツェペシュの父ヴラド2世は、トルコ軍と勇敢に戦った功績で神聖ローマ帝国からドラゴン勲章を授かりました。そのドラゴンには「龍の騎士」と「悪魔」という意味があるそうで、息子であるヴラドのあだ名ドラキュラは「小ドラゴン」の意味、彼の名ツェペシュは「串刺し公」だそうです。

ヴラド・ツェペシュは1431年11月、大公の子として誕生しながら 13 〜 17才迄オスマントルコの首都エディルネ(アドリアノープル)にて人質に取られるなど不幸な少年期を過ごしています。人質として幽閉されていた間に、祖国では父と兄が殺されています。宮廷の陰謀であったとも、ハンガリーの介入があったとも言われています。

父と兄の死をうけ、オスマントルコはヴラド・ツェペシュを後継者にワラキアに親トルコ政権を作る事を意図し、彼を解放します(あるいは後継者となるべく自力で脱出したとも)。時にヴラド・ツェペシュ、17才。1448年に領主となったものの、独自後継者を擁するフニャディ・ヤーノシュにより領主の座を追われる事になるのです。しかしこの独自後継者が意に反して親トルコ策を採ったため、フニャディは今度はヴラド・ツェペシュに接近します。こうして彼は 1450年代前半はハンガリー最大の貴族にして対トルコ戦争の英雄でもあったフニャディ・ヤーノシュを頼り、行動を共にしています。

ハンガリーやワラキアを含むバルカン連合軍は、1444年、ヴァルナにてオスマントルコ軍と戦い、惨敗しています。ワラキアがその責を全てフニャディ・ヤーノシュに帰した事を恨んでいたので、これが父と兄の暗殺にフニャディ・ヤーノシュが介入したとする説を裏付けています。ヴラド・ツェペシュはワラキアを取り返すに際し、フニャディ・ヤーノシュを頼っていますが、一度は自分を領主の座から追い落とした人物、しかも父と兄を殺したかもしれない人物を頼ったのは;

  • 実際には加担していなかったから
  • 領主の地位から追放しようとはしたが殺す事までは意図しておらず、それはワラキア貴族の仕業であったから
  • それは政治政略という大きな流れの中での出来事であり、フニャディ個人の責ではない事を理解していたから

などなどが言われています。ヴラド・ツェペシュはこの期間に、フニャディから戦術/政略その他、様々な事を学ぶのです。

1456年に晴れて領主に返り咲きましたが、この年はナーンドルフェヘールヴァール、つまり現在のベオグラードにて、侵攻してきたオスマントルコをフニャディ・ヤーノシュが撃破した年です。

領主となった彼が最初にした事は、父と兄の暗殺に加担した貴族達を串刺しの刑に処する事・・・・・・・・・


- 対トルコ戦争 No. 1

ヴラド・ツェペシュの祖父も父も、オスマントルコと勇敢に戦った英雄でしたが、衆寡敵せず、破れてしまいました。当時、ワラキアは独立国家だったとは言っても、それはオスマントルコ帝国の属国として朝貢を条件付けられていました。しかし領主となったヴラド3世は朝貢を拒否し、ガルナシュ山中に難攻不落のポイエナリー城を築き、ここを根城にトルコの砦を次々と攻略していきます。当時のオスマントルコ帝国は「征服者」と称された第7代スルタン、メフメト2世の時代です。メフメト2世はヴラド3世の挑戦に怒り、数万の兵を率いてワラキアに侵攻します。トルコ軍を迎え撃つワラキア公国軍の兵力は僅かでしたが、ヴラド3世は神出鬼没のゲリラ戦を繰り広げ、徹低した奇襲と殺戮でトルコ軍を翻弄し、勝利をおさめたのです。

1461年 2人のトルコ使節がドナウ川河畔ジュルジーの港にやってきました。名目は和平交渉でしたが、実はヴラド3世をだまして捕らえるようにと、メフメト2世からの密命を帯びていたのです。敵の魂胆に気ずいたヴラド3世は、使者を酒とご馳走ですっかり油断させ、彼らが寝込んだすきに、ひそかに多数の兵士にジュルジーの町を囲ませ、夜襲をしかけます。この戦いで 23000のトルコ兵が殺され、20000の兵が捕虜になりました。

町外れの平野で捕虜たちは裸にむかれ、メフメト2世への報復として生きたまま棒に串刺しにされました。2人の使者はドラキュラを欺いたとして、特に長い棒にさされたといいます。串刺しの棒は長さ3キロ、幅1キロに及んで延々と続き、これら無残な死体には烏がたかり、周囲に吐き気がするような死臭が立ち込め、烏につつかれ悲鳴をあげる者、呪いの言葉を吐きながら死んでいく者・・・・・・・・・

侵攻してきたトルコ軍はその身の毛もよだつ光景にすっかり怖気付き、メフメト2世も「このような者と戦わねばならぬのか・・・・」と絶句し、コンスタンティノープルへと撤収してしまったと言います。


- 対トルコ戦争 No. 2、ハンガリーへの亡命と幽閉

1462年、再びオスマントルコの侵攻が始まります。この時トルコ軍の指揮をとったのは、ヴラド3世の弟ラドウだったといいます。彼はトルコに友好的で、兄と共にトルコに捕らえられた時から、そこの生活になじみ、どうやらメフメト2世とできてしまっていたようです。メフメト2世の大軍に襲われたヴラド3世は流石にたまらず、トラシルバニアに逃げ去りました。しかし 2000メートル級の山々を越え、命からがらトランシルバニアに逃げ込んだヴラド3世を、ハンガリー王は裏切って監禁してしまいます。

当時のハンガリー王は「フニャディ・マーチャーシュ」、彼の父は対トルコ戦争の英雄にして名将との呼び声も高き「フニャディ・ヤーノシュ」です。マーチャーシュ王は名将としても知られており、文芸を保護し、中央集権化を推進し、中世ハンガリー王国の絶頂期を実現しますが、領土的野心が高く、1485年にはウィーンを攻略して遷都したりと大いに領土を拡大したりもしています。ヴラド3世を幽閉したのも、その当りに理由があるのかもしれません。

その後 12年間、ヴラド3世は牢獄で暮らすことになり、彼が幽閉された後は、弟ラドウがワラキア大公の座についたのです。1462 〜 74年まで、トルコへの忠誠を守り、比較的平穏な日々が続きました。

* その後 12年間を牢獄で過ごしたわけではなく、1466年前後に幽閉を解かれ、ワラキア領主に返り咲いた1476年には既に10才になる息子がいたとする説もあります。


- 対トルコ戦争 No. 3、ワラキアへの帰還とその死

1474年、ハンガリー王の妹を妻に迎えることを条件に、ヴラド3世は幽閉から開放され、新妻と共にワラキアに帰還します。2年後には弟ラドウを破り、再びワラキア公に返り咲いたのです。しかし、愛する男ラドウの危機に怒り狂ったメフメト2世は大軍率いてワラキアに侵攻して来ます。(ラドウは既に死亡しており、息子が後を継いでいたとも言われます)。

1476年12月、トルコとの戦いは冬のブカレスト郊外で始まりました、その時ヴラド3世は、ワラキア軍がトルコ軍を迎え撃つところを見ようと、小高い丘から戦況を眺めていましたが、いつのまにか自軍に取り残されてしまい、周囲は敵だらけ。トルコ兵の死体の服を剥いで身に付け、なんとか危機を脱して自軍に追いついた彼を待っていた物とは・・・・? ついにヴラド3世の最期がやってきました。ワラキアの雑兵はトルコ兵の服をきた人物が、自分達の王とは気付かず、ヴラド3世はついに自分の兵士の槍に胸を突かれ息絶えたのでした。彼の首はコンスタンティノープルに送られ、杭に刺されて晒されたと言います。

 

* その他「対トルコ戦争の最中にワラキアの貴族に暗殺された」、「メフメト2世の密命で暗殺された」などの説があります。


- ヴラド3世、その統治

ヴラド3世は厳しい性格でもありました。掟を破ったものへの厳しさは普通でなかったと言います。不倫した人妻は子宮を裂かれ、親に背いた娘は乳房を抉り取られ、ふしだらな未亡人はまっ赤に焼いた鉄の串で子宮を突き刺されたりと、国民に異常なまでの厳しいモラルを課したそうです。


- 概論

オスマントルコ兵20000を串刺し刑に処したのみならず、多くの自国領民も串刺しにし、残虐な性格として有名なヴラド3世ですが、私は特に彼を残虐な人とは思いません。現代に生きる我々から見れば「オエー! 気持ちわりィ〜! ひでェ〜!!」ですが、串刺し刑は当時はごく普通に行われていた処刑法であり、その他にも火炙りや目潰しなど、残虐な刑は幾らもありました。それに当時のワラキアは中央集権国家ではなく、日本の戦国時代にも似たようなものでした。

また、義経が兄に討たれたように、兄弟・一族でも信用ならず、誰が敵なのか味方なのかわからない状況です。そのような状態でオスマントルコのような強敵と戦うには、力と恐怖による統治であれなんであれ領内を掌握しておかざる得ません。トルコ兵串刺しは「2度とくるな!!」という牽制でもあり、彼としてもこんな時代を生き残るのに必死だったのではないでしょうか。

いずれにしても、彼は民衆からは支持され敬愛された領主でしたし、現在でもルーマニアでは救国の英雄として敬意を払われているそうです。

英国の作家ブラム・ストーカーは東欧の吸血鬼伝説とこのヴラド3世を重ね合わせ、書物を著し、映画化もなされました。ある作家の短編小説においても、ヴラド3世を「悪魔」といった方が正しいかもしれないと言っています。なぜ、ルーマニアの英雄ともいえる人物が、闇の帝王・悪魔の化身として描かれてしまっているのかと言えば、ザクセン人と呼ばれていたドイツ系住民が商売を独占しているのを嫌い、串刺しの刑にしまくったようです。それで特にドイツにて悪名が高まり、それが小説に影響を与えたとも言われています。

また、ブラム・ストーカーは東欧の吸血鬼伝説と 16世紀のハンガリーに実在した伯爵夫人エリザベート・バートリーも作品のヒントにしたようなのですが、このバートリーこそは、まさしく吸血鬼でしょう。映画で観るドラキュラ。見方かえれば、この英国人作家が実際のドラキュラを世界的有名人にしたといえるかもしれません。

今でも東欧・山間部の村ですが、吸血鬼から身を守るため軒先にニンニクを吊すと聞きます。詳しい事は分かりませんが・・・・・・・

 

日本だと、菊池秀行という作家の書いた「バンパイアハンター D」シリーズが有名でしょうか。ソノラマ文庫から出版されています。吸血鬼は貴族と呼ばれており、その貴族と人間のハーフ:ダンピールである「D」が主人公です。Dは、ドラキュラの「D」であり、貴族の中でも神祖と呼ばれるドラキュラと人間のハーフなのです。シリーズの始めの頃は面白かったのですが、最近は今一つですね。


*参考:「VLAD TEPES - The Historical Dracula

    「Dracula ドラキュラ 千魔万来 - 古今東西気になる舎

    「http://www.carbuncle.jp/vamp/vlad/menu.html

    「永遠を生きる

 

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