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5 10歳の子ども

5 10歳の子ども


アルベルト・シュテッフェン


歯の生え替わりで目覚める権威に対する感情は、9歳が終わるまで変わらない。子どもは権威の命じることを当然の事柄として受け入れて、それに順応する欲求を感じる。子どもは権威に直面したとき、まだ意識的に識別することはない。しかしこれからは子どもは根拠のしっかりした権威を要求する。それについて議論し、それを知的に正当化したいという意味ではない。むしろそれが人生の試練にどれほど役立つかを無意識に感じ判断するのである。

さて子どもの発達に転換点が来る。今まで子どもは動物、植物、岩石などをまったく識別しなかった。生き物全般を眺めて、自らが生き物の一員であることを感じるだけだった。自らの自己と外界がその感覚作用において結びついていた。それは子どもの経験の特徴である。具体的に言うと、子どもが、自分のぶつかったテーブルを叩くときである。これは、よく主張されるように、子どもがテーブルに人格を与えるからではなく、子どもが自分をその環境から完全に切り離すことができないからである。

9年目になると、シュタイナー博士が述べたように、広範囲の疑問が子どもの心に現れる。そのすべては外界から分化した感覚から生じるのである。さて教師もまた子どもに別人となって出現するだろう。今まで子どもは教師のへまにほとんど気づかなかった。今や子どもはそういうへまに大いに注目し始める。どんな風に言葉に詰まるか、どんな風にチョークを落とすか、自制心を失うか、教師は教師自身がやりたいことを分かっているのか、教師の心構えはどんなものか? 懐疑家は、内容が何であれ、その声だけで、信じる心の厚い者とは異なる影響を子どもに与える。プロテスタントの教師は、カトリックの教師とはまったく異なる感情を子どもに引き起こすだろう。

この意味深長な転換点は、民族と国民性に応じて、多彩に変化して、時には早く時には遅く姿を現す。シュトゥットガルトのヴァルドルフ学校の職員会議では、個々の子どもひとりひとりについて話がなされる。教師にとって学習にならないものは誰もいない。個々が互いに及ぼす目に見えない影響について特に研究される。シュタイナー博士は男子か女子のどちらがクラスの多数を占めるか、あるいは同数であるかで、クラスの精神がどうなるか、最も注意深く観察した。クラスのひとつひとつが、異なる扱いを必要とする。教師は各生徒にもクラスの「総体」にも、同じような関心を向けなければならない。そして教え方そのものが、そのすべてにとって最良と思えるように変わらねばならない。

人生のこの段階で重要なのは、訊いた質問とその答えの実際の内容というよりむしろ、言葉の背後にあり、交流によって発達するあの定かならぬ何かなのである。子どもは、この時期以降、先生が内的に自分に自信がないと認めざるを得ないなら、その先生を尊敬することは出来ないという思いを抱く。それゆえに、特に知りたがる子どもは放課後も先生につきまとう。子どもが確信を目覚めさせることが出来ることが最も重要なのである。この時期に子どもは、一生自分の模範として立つことが出来る誰かを見いださねばならない。そうしなければ、子どもは不安定で弱い性格にさせるような傾向に身を委ねる危険にさらされるだろう。子ども時代の影響が後年に光を浴びるようになるということを観察する人はあまりいないようだ。10歳の時に尊敬した人物像がどれほど限りない意義を有すか、分かっていないのだ。目覚めた生にぼんやりと現れようが、夢にもっとはっきりと現れようが、その人物像が気質を条件付けし、子どもの心構えに影響する助けとなり、共感を引き起こすか反感を引き起こすかによって子どもを幸せにも悲しくもするであろう。周期的に反復する生き生きとした夢で、子どもは、はじめて自分をその環境と識別し始めた頃、友となり助けとなり警告をして信頼を目覚めさせてくれたリーダーを見いだした当時と関連する場面がわき上がってくるだろう。成人した時にもここから力を得るだろう。ところが先生が畏敬に値しなかったならば、子どもの諸力はむしばまれるだろう。

授業科目も子どもの発達期に順応しなければならない。9歳が終わる前の子どもにとって最悪のことは、機関車や電車の機械的な理解を獲得することである。そういうことは肉体機構全体にまさしく作用するだろう。シュタイナー博士はここで自分の経験から話している。彼の子ども時代は小さな鉄道の駅で送られたからだ。そこで彼は毎日数え切れない汽車が通過するのを見た。早熟に子どもに導入された概念的思考方法は、身体に打ち込まれた杭のように子どもに影響する。この時期に、教師はすべてが子どもにとって生き物になるように努めるべきだ。子どもが植物にしゃべらせるように、動物に道徳的存在として行動させるようにさせよう。子どもが全世界をおとぎ話に変えるようにしよう。本ばかり読む本の虫にするという意味ではなく、創造的な詩人にするという意味である。本という本を読み尽くした学者がどれほど面白おかしくお話をしようとも、子どもは衒いを暴露するカビくさい羊皮紙のにおいをかぐだろう。しかし自分で考える芸術家は言葉に創造力を持っていて、それが子どもたちに伝わるのである。シュタイナー博士は、童話を作り上げるために学校へ急ぐ芸術家の姿を生き生きと描いた。耳を傾ける子どもたちの顔には輝きが見えるだろう。子どもたちもまた物語の一部なのである。

世界と子ども、子どもと世界、この2つは10歳前にはひとつである。それゆえに、なにもかもが、石も植物も動物も、太陽と月と星が、雲と山と川がこのようにして導入されねばならない。しかし、10歳になると、子どもをますます自己完結した存在にするあの決定的な変化が来る。今こそ、教育は外界の区別を詳説すべきである。動物と植物について、子どもに、もはや以前と同じように話すことは出来ない。

この年齢の学童に、植物を大地から引きはがされたものとして、植木鉢に収められたものとして紹介することは恐ろしいと、シュタイナー博士は述べた。植物は、人間の髪が頭部に帰属するように、地表に帰属している。植物だけでは何も教えてくれない。根を抜かれると植物は無意味である。子どもは植物が大地と必ず関連していると感じるように導かれるべきだ。根の性質に対する感覚が、子どもに、呼び覚まされるべきだ。根は乾いた土、湿った場所、山地か海の近隣かで、性質が異なるのだ。これと対照的に、花と実を、太陽と結びついたものとして、子どもは経験すべきだ。花の花弁を展開させる温もりと光が植物を大地から解放するさまを、子どもは体感しなければならない。

ライムギを小麦と区別できない人間には、何かが欠けているとシュタイナー博士は述べた。種子の感触だけで違いを知っているだけなら、種子をつけて熟す畑で両者を区別できないなら、何かがまだ欠けている。私たちは子どもたちを、青空の下、田舎へ連れて行かねばならない。ジャガイモが根でなく、地中に潜り込んで大地のやり方に順応する地下茎であると分かることは、子どもにとって何たる経験であろうか。また、湿った野原と秋の日の斜めに差す光線が秋のクロッカスのライラック色の杯を創造すると実感することも素晴らしい経験である。

このように世界は非常に分化した有機体として出現する。このような見方から、自然主義的な地理に移行することは容易である。現代人は地球を、まるで機械的な数学法則によって支配されて、宇宙空間をただよう球にすぎないかのように、述べる。地球が植物の衣をまとっていることはほとんど注目されない。地球の宇宙での位置を語りたいなら、子どもに、根の時と同じリアルな重力の経験を目覚めさせなければならない。そうしなければ、子どもに死んだ概念を導入しているだけであろう。

教師は、まさに植物界との関連から、生徒が世界の理由付けに関する質問をし始めると発見するかも知れない。因果関係の感触が、成長と衰微をしっかりと考えるときに目覚めるだろう。それも、健全な目覚め方をするだろう。それに対して、機械的な概念から因果律の感触が生じるときには、そうはならない。

動物界に関しては子どもに、魂の資質を正しく描き比較することによって提示されるべきである。

シュタイナー博士の観察の要約しか、ここでは述べられない。彼は、堂々たる組み立てで、最も細かな点にまで科学的に、彼の進化の教説を展開させた。それから、集まった教師たちに、自分が与えたものを一千通りにも変化させて、10歳から12歳の子どもの知能に合わせる課題を与えたのである。

彼は人間有機体の3重の機能から話しだしたが、それについてはすでに述べた。

ドーム状の頭蓋の頭部は、細胞の固まりからわずかに分化したすぎない灰色の脳物質を収めている。そして、さらに奥の内部には繊維質の白質がある。このような頭部は最下等の動物、貝類になぞらえることが出来る。主に背骨とリンパ腺の支配下にある胸部有機体は、中位の動物、魚類になぞらえることが出来る。代謝四肢系は、最高段階の動物(例えば牛やラクダ)になぞらえることが出来る。こうして人間有機体との関連で動物界の3区分が出来る。

ここではざっと示しただけだが、このような立脚点から、実在に照応した進化観が獲得される。人間進化はもともと、後に頭部になったものから生じた。人間の頭部こそ、最も長い時間をかけて進化したものだ。胎生学がこの証拠となる。実際、頭部の組織は、現在貝類(牡蠣など)で表象される生命段階に生じた。貝類は現在、地球のすっかり変わった状況で、人間が未開の時代にどんなものであったのかを提示している。進化の行程で、人間はこれらの有機体を自分自身の外へ投げ捨てて、さらに発達を遂げた。貝類は或る程度取り残された存在なのである。

魚類は人間発達の第2期を示す。魚の組織の起源は人間ほど古くない。魚が生まれたときに、人間はすでに自分自身のリズム有機体からあれらの衝動を引き出すことが出来たが、魚はそうした衝動をその環境から引き出さざるをえなかった。このように中間となる動物の組織は、人間組織に後で付け加えられた。人間はすでに一定の段階に到達していたのである。

最後に、人間が四肢と代謝系をすでに進化させたときに、高等動物が生まれた。

人間の起原をめぐる昨今の見解は、人間の頭部に関する限りにおいてのみ、有効である。頭部は、霊的な体制ではなく、その物理的体制において先祖に根を張っていて、今日の下等動物と遠い類似を示すからである。しかし、現在の下等動物は、当時の人間とはまったく異なる状況下で進化しているので、人間はそれらとはやはり異なるのである。

中等動物と高等動物は人間よりも起原が新しく、それらをヒトの始祖と見なすことは全面的に不当である。

このような要約は、シュタイナー博士が聴衆に提示した霊的法則と自然法則に協調した進化の教説をきわめて不完全な、そして欠落の多い素描でしかない。そう強調しておかねばならない。それにもかかわらず、この要約は、それを熟慮し補完する教師には手引きとして役立つだろう。教師は、これまで使ってきた方法を改良したくなるだろう。進化の起原に関する自然科学の教説が人間の3重組織を無視する限り、巧妙な理論の領域にとどまり、真剣な検証に耐えられないであろうと、シュタイナー博士は説得力を持って実証した。

動物界に外的に見いだすものは、人間の器官のひとつの一面的な発達である。ヒトは全動物界の集大成である。このことを子どもに明らかに出来るなら、私たちは子どもに世界に対する健全な感情を目覚めさせるだろう。

世界をこのように生き生きと実感することのほうが、「科目」の雑多な知識よりも重要である。普通の百科事典に見いだされる事柄に関して子どもを試すことは良くないと、シュタイナー博士は言った。それからシュタイナー博士は記憶力の教育に関して意見を述べた。歯の生え替わりまで、記憶力は成長力と密接に結びついている。模倣によって、そしていわば自然に、子どもは記憶力を進化させる。この時期の身体の健康に気を配ることが記憶力にも最善である。なぜなら7歳まで肉体の諸力と魂ー霊の諸力はひとつの不可分の総体を形成しているからである。実際、この時期に子どもに記憶力の鍛錬をやらせるなら、最大の損傷を与えていることになるだろう。

「生まれる前に正しい教育を子どもに与えるためにはどのようにすればよいのか?」と訊きに来るお母さんには、こう答えるべきだ。「ご自身の身体と振る舞いに気をつけなさい。そうすれば子どもは正しい影響を受けるだろう。そして、その成長は創り主にお任せしなければならない。」

歯の生え替わりの後にはじめて、記憶の発達に気を配るようにしなければならない。

それなのに、今過剰な負担をかけるなら、記憶はますます弱くなるだろう。そして私たちは子どもを硬直した存在にするだろう。その結果、子どもは後年になって偏見から抜け出すことが困難になるだろう。

他方で記憶の訓練を怠るなら、当面身体の強化に励めるだろうが、思春期にさまざまな炎症の状況への傾向を創造していることになるだろう。ここでは最大の機敏な感覚が必要である。

ヴァルドルフ学校では記憶力の発達も授業に含まれる。子どもには出来るだけ宿題を課されない。子どものやることがないと両親が苦情を言うとしても、である。宿題を課すことは、子どもが無視するかも知れないものを子どもに与えることである。教師がその実行を望むことが果たされないなら、それは最悪のことである。このようなリスクは避けるべきである。



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