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バッハのマタイ受難曲随想

バッハのマタイ受難曲随想


今年(2000年)はJ・S・バッハ没後二百五十年にあたり、世界中でバッハの音楽がコンサートで取り上げられている。日本のあちこちでもバッハ特集が企画進行中である。バッハ・コレギウム・ジャパンの総帥鈴木雅明さんの話では、このバッハ熱はヨーロッパで驚異の目で見られていて、日本の状況を報告するためにわざわざオランダから音楽ジャーナリストがやってきたということだ。

なぜ驚異の目で見られるかというと、バッハの音楽はキリスト教文化と深いかかわりがあるのに、アジアでもキリスト教人口の比率が低い日本でバッハが盛んに演奏される理由がわからないというわけである。キリスト教人口の多いフィリピンや韓国と比べると、日本はキリスト教を信仰する人々の数が格段に少ないのである。

それなのに大曲中の大曲マタイ受難曲が、少なくとも今年に限っては、繰り返し繰り返し演奏されるのである(何しろ全曲を演奏すると3時間では終わらない)。しかも、ブリュッヘン、ヘレヴェッヘ、ピノックなど世界の古楽器の雄が競うように演奏を披露する。またバッハがオルガニストだった聖トマス教会の人たちも来日して、初演復刻版のマタイを聴かせたのである。もちろん日本の演奏家たちも、例えば我らが鈴木雅明率いるバッハ・コレギウム・ジャパンも、全国でマタイを演奏する。

先日国立近代美術館で開催中のピカソ展でお見かけした吉田秀和さんは、西洋音楽の最高峰としてマタイ受難曲を挙げていたが、まさしくマタイ受難曲は純音楽的な要素だけでなく宗教的要素、文学的要素をも包括する巨大な作品である。先年亡くなった武満徹さんもマタイが好きで、最後の病床でもよく聴いていたそうだ。

音楽的な面でも非常に興味深い。例えばバッハは古い音楽史の研究が進むにつれて、ハイドンやモーツアルトやベートーヴェンとは一線を画す性質があるということが明らかになった。つまり20世紀前半を支配したブラームス、ワグナーに代表されるロマン主義的な様式にバッハはあてはまらないと分かったのだ。もちろんモーツアルトの演奏様式も劇的に変化した。オーケストラを小編成にして、古楽器特有のめまぐるしいニュアンスやリズムの交代や、明確な拍節観が支配的になった。

爛熟したロマン派のマーラーに現れるような長大なメロディーはバッハに現れようもないのだが、昔の人たちは例えばG線上のアリアと称して、管弦楽組曲の楽章のひとつをロマン派ヴァイオリニストのショーピースとして編曲したのだった。信仰心の厚いグノーはバッハの平均律クラヴィア曲集第1集の冒頭にメロディーを付けて、有名なアヴェマリアを作曲したのだ。つまり元のバッハの曲にはメロディーが存在しないのだ。実際、拍節観を明確にした現代の演奏は、白粉をこってりつけたような旧式の演奏様式と比べると、きびきびとしていて俊敏で強力な推進力に満ちた対位法を明らかにしてくれるのだ。

ところが、マタイには「私を哀れんでください」という有名な哀切きわまりないアリアがある。3度イエスを知らないと公言したペテロの悲しみが切々と歌われるのだが、タルコフスキーが彼の遺作「サクリファイス」でも利用しているので、多くの人がご存じだろう。こうした曲はメロディーが強調されているようにも思える。やはりバッハの信仰心と深い関係がある宗教曲だと言えよう。

はじめてマタイをその場で聴いたときのことは今でも覚えている。2つのオーケストラがあって、福音書家が朗唱することでストーリーの案内役を務めるのだが、歌手のソリストは一人ひとつの役でなく、むしろ複数の役を分担して歌っていくのだ。そして合唱のときにはソリストも合唱に参加する(現代有数の指揮者クラウディオ・アバドは半ズボンの子供時代に家族だけでマタイを全部演奏したという思い出を語っている)。

まあこんなことは当たり前のようだが、私は非常に強烈な印象を受けたのを覚えている。例えば罪人をひとりだけ解放しようと言われたとき、ユダヤの民衆は口をそろえて「バラバ!」と叫ぶのである。このユダヤの民衆は先ほどまでイエスの受難を悲しんでいた合唱の人たちなのである。罪もなく十字架に架けられた者でなく、大盗賊のバラバを赦すように民衆は申し出るのである。ここに使われた異様な響きは一度聴いたら忘れられるものではない。

バッハの受難曲に参加した人々は、ある特定の視点から、キリストの受難を眺めるのではなく、ありとあらゆる角度から地上でただ一度だけ生じたこの宇宙的ドラマを経験するのである。私たちはマリアであり、ピラトであり、ペテロであり、シオンの乙女であり、ユダでもあり、デマゴーグに煽動されて騒ぎ立てる愚かな民でもあるのだ。

このように、ドラマのただなかに私たちを投げ込み、私たちが反応するのと同じ思いや感情をいち早く表明する手法は既に古代ギリシアの悲劇に見られるものだ。コロスと呼ばれる存在は現在のコーラスの語源でもあるが、コロスがドラマに参加しながらドラマに注釈を加えていくとき、私たちは超越的な世界への扉がいくらか開いたように感じるのである。私たちはちぢに乱れて、通常の自己を超える経験をするのだ。

私の師であるメース博士ははじめてマタイ受難曲を聴いたときの感動を私に話してくれたことがある。日本のコンサートホールで聴いた私とちがって、メース博士は教会ではじめてその演奏に触れたのだった。「コーラスがバラバ!と叫んだとき、私の心臓は停まった」彼はそう言って、心臓の辺りを押さえる仕草をした。

音楽好きの人はご承知でしょうが、マーラー演奏のパイオニアでもあったヴィレム・メンゲルベルクが第二次大戦中に「マタイ」を演奏したライブ録音が残っている。ロマン主義と劇的な対比に満ちた解釈、悪く言えば大時代のいかにも芝居がかった演奏なのだが、聴衆は感情移入の結果あちこちで嗚咽が聞えてくるという録音なのだ。メース博士がメンゲルベルクの演奏を聴いたのかどうか聴きそびれたが、戦中戦後に残されたブルーノ・ワルターやウィルヘルム・フルトヴェングラーやオイゲン・ヨッフムらの解釈がまだ濃厚にロマン主義的な色合いを残しているので、きっといわば「文学的な」演奏だったのだろう。しかし様式的に正しいかどうかは別にして、マタイ受難曲という衝撃は昔の演奏にはたっぷりとある。

バッハが作曲した当時、バッハは信仰厚い信徒から「あなたは宗教曲でなくオペラを作曲したのだ」となじられたという話が残っている。だから非常に生々しい経験を信徒はしたのだろう。受難曲は宗教音楽の歴史に連綿と存在しているので、決してバッハだけが唯一無二の受難曲作曲家でもないのだが、バッハの曲は明らかに典礼の領域を越えていると私には思える。私は別にキリスト教徒でないが、それでもこの大曲に強く引きつけられる。仰々しく言うと、シュタイナーがレオナルドの「最後の晩餐」を地球のことを何も知らないエイリアンに見せたら、その宇宙人は地球の進化の意義を悟るだろうと言ったように、キリスト教徒ならざる身にもキリスト教のミステリーが眼前で展開するのに驚異の目を見張らざるをえないと言えよう。

実はバッハは受難曲を何曲か作曲している。だからマタイがバッハの唯一の受難曲というわけでもないのだ。現存するものとしては、ヨハネ受難曲がある。また最近トン・コープマンの復元によるマルコ受難曲がCDで発売された。それからおそらくルカ受難曲も存在していたのだろう。実際バッハ作曲「ルカ受難曲」というCDを私は持っている。

現在の福音書がこれまでに挙げた4者によるものであることは皆さんご存じであろう。マタイ、ヨハネ、マルコ、ルカ。この4者の福音書は19世紀に比較検討、文献学的批判が行なわれた。東洋の文化が優秀な東洋学者の翻訳によって流入するようになったとき、聖書も信仰の立場より学問的な立場で見られるようになったのだ。そこで福音書の記述に異同があることが分かった。いわく、イエスは十字架を自ら担ったのか、それとも他の者が担ったのか。厳密に研究してみると、マタイとマルコとルカは共通点が多いので、共観福音書と呼ばれるようになった。ヨハネ伝は「はじめに言葉があった」という宣言に見られるように、グノーシスや古代ギリシア哲学の影響が色濃く看て取れるので、別の立場で後に書かれたものだろうということになった。

ところが聖書の記述を文字どおりに読んでみると、奇妙なことに気がつくのだ。キリストが十字架上で苦しみ死ぬとき、その一部始終を見届けたのは「主のもっとも愛した弟子」つまりヨハネしかいないのだ。他の弟子は皆逃げ去っていた。だから書けっこないのである。ところが主の事跡を最も具体的に語ることができるはずのヨハネは、高尚な哲学談義から記述をはじめて、一向に人間イエスの側面は見えてこないのだ。一方その場にいなかったはずのマタイは非常に人間的な姿を詳しく述べている。これはどういうことなのか。宗教だから、何でもありなのか。

ルドルフ・シュタイナーは全く別の立場から福音書に光をあてている。福音書家の記述がそれぞれに異なるのは当たり前なのだと彼は言う。驚くべきことに、その記述は物質世界での経験を元に書かれたものではないのだ。それぞれの霊的洞察力の深さと質にしたがって、自らが霊視したものを誠実に記述したものなのだ。

福音書家はそれぞれが参入した秘儀の智恵にしたがって、記述したのだ。だから弟子が逃げたという学問的な研究結果も肯定しながら、私たちは新たな視点に立つことができるのだ。そしてキリスト教の伝統が教えることも楽しむことができるようになる。例えばヴェネチアのサンマルコ大聖堂を眺めると、私たちは聖マルコが獅子の象徴と共にあるのを知る。中世の文書を見るとヨハネは鷲とともにある。医者でもあったといわれる聖ルカは牛を伴っている。聖マタイは人間の表象をもつ。

聖ヨハネは黙示録の作者でもある。その黙示録にもやはりこの4つの「動物」が登場する。牛、獅子、鷲そして人間である。こうした伝統に従って、中世の建築、彫刻、絵画など芸術の全般が形作られたといってもよい。しかしシュタイナーは、さらに普遍的な洞察を成し遂げて、その洞察がヨーロッパの伝統の智恵とも一致することを示したのである。この点はしつこく言っておこう。彼は文献学を通じて霊界に到達したのではなく、今ある世界から霊的認識に到達したのだ。だから別に伝統によるお墨付きは必要でないのだ。しかしパイオニアの常として、自分と認識を同じくする者を発見することは彼にとって格別うれしいことであったようだ。だから彼はパラケルススの名前を挙げる。アルケウスというパラケルススの概念はエーテル体に一致するということを知ったからである。

それでは、この4動物にシュタイナーは何を見ていたのか。受肉する前の存在たちである。人間存在を創造するのにどうしても必要な超感覚的存在である。私たちが地上に目にする4者は、こうした超感覚的存在の投げかけるいわば影なのである。

地上を侮蔑し、余計なアストラルと生命の諸力が発生するとき、それらに死をもたらし、天上の優越を無言で示す鷲は、人間存在が頭部に中枢を持つ神経感覚系を形成するのにどうしても欠かせない存在だ。生命とアストラルに黄金の均衡をもたらし、最もたくましいリズム系を有すライオンは、人間が肺と心臓をもつ力強い胸部リズム系を創造するのに不可欠な動物だ。過剰な生命の繁茂を打ち消すたくましい熱と物質代謝を備えた牛は、私たちが健全な代謝消化系、冷たい頭部に対抗する力を生み出す熱の発生源をもつためにいなければならない存在なのだ。

私たちはこうして頭部神経系―胸部リズム系―腹部代謝系という人間の3層構造をまた確認することになった。

それではマタイは何か。これらすべてを統御し、人間有機体に収める人間的な力だ。マタイ伝は、ヨハネ伝ほど神々しいイエスを描かないかもしれない。マルコ伝ほど勇猛果敢な未来に生きるイエスを述べないかもしれない。ルカ伝ほど慈愛と癒しに満ちた救い主の姿をあらわさないかもしれない。いずれの特徴もいささか輪郭のぼんやりしたものになっているかもしれない。しかし、それだからこそ、地上に生きた人間としてのキリスト=イエスの姿が生々しく美しく描かれているのだ。人間像が全体としてくっきりと浮かび上がるのだ。

シュタイナーによる特徴づけが本当に正しいかどうか検証をしていくと、さまざまな局面で思い当たる節が見えてくるものだ。あるいは明らかな矛盾点が見えて、どうもおかしいのではないかと思えることもある。そうすると、それは新たな宿題として、明日の経験が興味深いことになるのだ。十年経たねば解けないかもしれない。もしかすると今生では解けないかもしれない。それでもすぐれた感受性を育てるよい基準になることはまちがいないだろう。

バッハの「マタイ受難曲」を聴くと、ほんとうに不思議な感じにとらえられる。

千載一遇の機会ですから、皆さんもどこかで「マタイ受難曲」を聴いてみませんか。


後記 私事になりますが、拙訳によるメース博士の著作集が『シュタイナー医学原論』というタイトルで平凡社から6月21日に出版されます。内容は『着衣の天使』、『ドラッグ』、『骨格の秘密』、『金属は生きている』という4つの単行本を1冊にまとめたものです。四千八百円ですから、ちょっと高く思えますが、単行本4冊分とすると割安です。内容は医療に関心のある方ならもちろん、人間一般に対する興味がある方なら誰にでも読むことができるものです。シュタイナーのものは少し難しすぎると思う方にも、よい入り口になると信じます。個人的には『星の王子さま』の好きな人には是非お読みいただきたいと思います。

メース博士の祖母は日本人でした。そしてメース博士はルドルフ・シュタイナーに直接会って、握手をしている人物でもあります。オランダのシュタイナー学校の先生も勤め、開業医としても、講演者・著述家としても高い評価を受けました。長年にわたるオランダ人智学の指導者でした。


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