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ファンタジーに生きる

ファンタジーに生きる


昔むかし日の光が木の枝のすきまからさしこむ森に、スミレが住んでいました。とても恥ずかしがりやのスミレが、大きな葉っぱの木の下に住んでいました。

スミレが見上げると、木のてっぺんから空が見えました。木のてっぺんのあたりのほうを見上げると、青い空が見えました。小さなスミレは今朝はじめて青い空を目にしたのでした。まだ花を開いて間もないので、はじめて目にする青空だったのです。

スミレは青い空を見るとこわくなりました。スミレさんはほんとうにこわくなってしまいましたが、どうして自分が怖いのか、そのわけは分かりませんでした。

すると一匹の犬がそばを通りかかりました。ひとの良い犬ではなく、ひとの悪い、落ち着きのない犬です。スミレは犬に訊きました。

「ねえ、あの上にあるものは何なのか、教えてください。私みたいに青いものは何ですか」

空はスミレと同じように青い色をしていたのです。ばかな犬は言いました。

「ああ、あれは君のようなスミレだけど、おそろしくばかでかいスミレなんだ。大きくなりすぎて、君はつぶされちゃうかもね」

スミレはますますこわくなりました。空にいるスミレがとても大きくなったので、自分をつぶしてしまうと思ったからです。

スミレは小さな花びらをしっかり折りたたんで、あのとても大きなスミレを二度と見たくないと思いました。それで、そよ風が吹き飛ばした大きな木の葉の下に隠れました。そこでスミレは一日中じっとしていました。大きな空のスミレが怖くて隠れていたのです。

朝になりましたが、スミレは一晩中眠れませんでした。自分を踏みつぶしにくる大きな青いスミレのことをあれこれ思って、夜をすごしたからです。今にも踏みつぶしにくるようにスミレには思えました。でもそんなことはありませんでした。

朝になってスミレはちっとも疲れていなかったので、そっと顔を出しました。一晩中スミレは考えてばかりいたので、元気で疲れていなかったのです(スミレは眠ると疲れます。眠っていないときスミレは疲れないのです!)。

小さなスミレの目に最初に入ったものは、昇ってきた朝日とばら色の朝焼けです。スミレは、ばら色の朝焼けを見たとき、ちっともこわくありませんでした。彼女はうれしくなりました。朝焼けを見て幸せでした。朝焼けがいつのまにかいなくなると、薄い青空が少しずつまた姿をあらわしました。どんどん、どんどん、青くなっていきます。小さなスミレは犬の言葉をまた思い出しました。あれは大きな大きなスミレで、いつかおまえを踏みつぶしにくるって…。

そのとき子羊が通りかかりました。小さなスミレは自分の上にいるのは何なのか、また訊きたくなりました。

「何があの上にいるのですか」とスミレは訊きました。

「あれは大きな大きなスミレだよ。君とおなじように青い色のね」

スミレはまたこわくなりました。スミレは、羊さんから、ばかな犬が言ったのと同じことを聞かされるだけなのかしらと思いました。でも羊はひとの良いやさしい羊でした。彼はとてもよい優しい目をしていたので、スミレはまた訊きました。

「ねえ、羊さん、教えてください。上にいるあの大きな大きなスミレは私を踏み潰しに来るのかしら?」

羊は答えました。

「ちがうよ! 君を踏み潰したりしないよ。あれは大きな大きなスミレなんだ。彼の愛情は君の愛情よりずっと大きいんだ。彼は、小さな青い姿の君よりずっとずっと青いだろ」

それで小さなスミレは、あの大きな大きなスミレが自分を踏み潰さないと、すぐに分かりました。

あの大きな大きなスミレは、もっともっと愛することができるように、青いのです。大きなスミレは、小さなスミレを、彼女を傷つける世の中のものすべてから守ってくれるのです。それで小さなスミレはとても幸せになりました。大きな空のスミレとなって青く見えたものは、今では、神様の愛情となって現れました。神様の愛は四方八方から彼女に向かって流れてきているのです。それからは、小さなスミレはスミレの神様にお祈りをするかのように、いつも空を見上げていました。


これはルドルフ・シュタイナーが1924年8月15日にトーキーのサマースクールの頃に与えた「こどもの国」と題された連続講義のなかの第4講義にあたるものの中に見つかるお話です。イギリスの人智学とシュタイナー教育を、オウエン・バーフィールドとともに支えたA・C・ハーウッドの書き記したところによると、この講座の参加者は5人に満たない先

生と教員志望者と数人のその他の人々にすぎなかったのです。しかしシュタイナー最後のイギリス旅行は翌年にただちに、最初のシュタイナー学校の設立となって実を結びました。何度読んでも心奪われるお話をシュタイナーは即興で、このように際限なくつくりだしたのでした。

以前高橋弘子先生と電話でお話ししている時に、弘子先生は「私はスミレが一番好きなんです。それも日本のスミレ、タチツボスミレが好きなんです」と言われたのを非常に印象深く思い出します。私は真っ先にこのお話を思い出しました。もう十年以上前に読んだ講義録ですから、私はこのお話と十年以上付き合っていることになります。何度も何度もこの話を思い出すことで、私は多くを学んだつもりでしたが、今こうしてつたない日本語に移してみると気付いていなかった面がいくつも不思議となって、私の前に立つのを感じます。もし私にスミレと犬について何か話ができるとしたら、それはこのお話のおかげなのですが、今回私は「スミレは夜眠ると疲れる」という不思議なコメントを見つけました。

いつかスミレについては研究をしっかりとまとめてみようと思っていますが、そのときには必ず私はゲーテのスミレをうたった詩を引用することでしょう。そしてモーツアルトがその詩をどのように扱ったかを述べるでしょう。あっさり書くと、文豪ゲーテ、しかもモーツアルトをこよなく敬愛したゲーテの詩作をモーツアルトは、自分の歌曲の流儀で改変しているのです。それは別の問題として、ゲーテもやはり野にひっそりと咲くスミレの美しさと、それをあっさり踏みにじってしまううら若い少女の無邪気さをうたっています。

ほんとうに踏みにじられるしかないスミレがなぜあんなに美しい姿をしているのでしょうか。ほんとうに空の青さを映しながらもはにかんでいるような慎ましい姿でいながら、踏みにじられながら、なぜ翌年また芽を吹き花をつけることができるのでしょうか。

道端のコンクリートの隙間に見事なスミレが毎年群生しているのを見かけたことはありませんか。そうなのです。どういうわけか、スミレはあの可憐な姿とうらはらに、たくましい生命力に恵まれているのです。春になると慎ましく紫色、ヴァイオレット色に咲くヴァイオレットを見ると、私は空の青さ、蒼さ、藍色、紫が地上に無事に注がれたのを感じて、妙にうれしくなるのです。

シュタイナーはこのお話を7、8歳の子供用に創作しています。少し世界に目覚めかけたこどものためのお話です。もしかすると幼稚園に通う子供たちにはまた別のお話が必要なのかも知れません。ですから、こう考えたほうがいいでしょう。7歳前のこどもたちはこのお話に現れるファンタジーを楽しむというより、むしろこのようなファンタジーがこどもの中で息づいて活動しているのです。大人が忘れてしまった、二度とそれを取り戻すことができないように思えるファンタジーが生きているのです。

また弘子先生の言葉を思い出しました。

「こどもはできるだけ目覚めないように育てなければいけないと思いませんか」

大変な誤解を招きかねない表現ですが、神経と感覚の覚醒を目指すさまざまな刺激がこどもの周囲に満ち溢れているのを知っている者にとっては、深い真実を秘めています。私たちは遅かれ早かれ目覚めざるをえないのですが、早期に頭部を目覚めさせて神経感覚系を育てようとすると、若年期から老化の過程が始まるのです。そしてこの硬化症、固化の過程は決して償うことが出来ません。肝硬変などの硬化症、ガンなどの疾病、脳梗塞や痴呆症などはもしかすると、こども時代の教育環境に遠因があるのかもしれません。花粉症がなぜ流行るのかも、説明が可能かもしれません。

でも、こんな堅い話より、シュタイナーの不思議なお話を楽しんでください。


今度皆様にお目にかかるときには、人智学に限らず、ファンタジーの力とその本当の性質について、一緒に考えてみたいと思います。そうすると、ファンタジーが野放図なでたらめな空想ではなく、生き物を生き生きとさせるもの、死んだ鉱物すら生き生きと甦らせる「有機的な」力であることが経験できると思います。

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