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灰色の目今春(1999年)ベルリンでアバドとベルリン・フィルの演奏を堪能して来た。そのクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルによるプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」のすばらしい演奏がCD化された。また、ディミトリー・ミトロプーロスによるベルリオーズの「ロミオとジュリエット」の抜粋の、強烈な表現意欲にあふれたCDを聴く機会にも恵まれた。そのうえ、噂のカップル、ゲオルギューとアラーニャを主役に配したグノーの「ロミオとジュリエット」も入手した。時はまさしく、夏至の頃から7月という、シェークスピアが設定した、この悲劇の季節である。 興味のおもむくままに、原作を読むことにした。古今東西多くの人々の霊感の泉となった名作を味わうのは、また格別のごちそうだ。いつもながらに、シェークスピアのたくましい詩的想像力に感動する。今回の読書で、若いロミオとジュリエットだけでなく、マーキューショやベンヴォーリオ、乳母や僧ローレンス、ティボルトなど、個々のキャラクターを、鮮やかに感じることができた。その大きな助けになったのが、アバド、ベルリン・フィルによる斬新な演奏だった。プロコフィエフは何と、これらの登場人物を身近に感じているのだろう。自伝で自分の音楽の特徴を、気まぐれ、哄笑、愚弄と、明言したこの作曲家が、封建的なモンテギューとキャプレット両家の確執を、冷徹に描き出す。知性によって嘲られるべき旧弊で固陋な社会意識のはざまに、世界史上類いまれな、可憐な恋が花開く。不思議だが、プロコフィエフには、甘ったるくならない、硬質の叙情が流れている。 もし時間と才能が許せば、「ロミオとジュリエット」のイメージに現れた、秘教的意味関連を指摘できるのだが。もちろん、その時には、ヴェルディの「アイーダ」の秘教的な意義をも追究することが必要になるだろう。 しかし、ここでは、シェークスピアの詩的想像力の宝庫の中から、ささやかな宝の一つを提示するにとどめよう。第2幕第2場のバルコニーの場面からだ。「星の交差した」恋人は、一途に激しく愛を燃え上がらせる。何とナイーブな心情が、何と洗練された詩の技巧にのせられて、表現されているのだろう。 ロミオは、部屋へ戻ったジュリエットに目をはせながら、こう言う。 Sleep dwell upon thine eyes, peace in thy breast! Would I were sleep and peace, so sweet to rest! The grey-eyed morn smiles on the frowning night, Chequering the eastern clouds with streaks of light, あなたの目に眠りが、あなたの胸に安らぎが宿りますように! ぼくが眠りであり、安らぎであるなら、憩いは甘くなるだろうに! 灰色の目の朝が、しかめっ面の夜にほほ笑みかけて、 幾筋もの光で東の雲を切れ切れにしている、 ここで、私たちは、「灰色の目の朝」に出会う。黒い目の日本人は読み飛ばしそうだが、朝焼けの色を灰色というのは、何か変ではないだろうか。果たして、注釈に「灰色の目はたぶん青い目のことだ」とある。問題を整理しておこう。光の極大は白として、影の極大は黒として、知覚される。汚職疑惑を受けた官僚は灰色高官と呼ばれる。白とも黒とも決しがたいと言う訳だ。白と黒の対比において、通常の科学は色彩を見いださない。透きとおった水をたたえたバケツに、墨汁を少しずつ注いでいけば、闇が増大していく。決して、その途中で、青が生じることはない。 ところが、シェークスピアにとって、灰色の目は青い色の目のことだった。この表現は決して書き損じではなく、この戯曲の他の箇所でも類似の表現が見られる。 ならば、シェークスピアの「グレイ」は灰色でなく、青い色だったのか。 問題は、そんな簡単なことではない。色彩経験は、科学がいう物理的条件にのみ支配されているのではない。私たちの内的経験が大きな役割を果たしている。さらに、人間進化の進行過程を考慮に入れなければならない。 科学の知見を踏まえつつ、この状況を表現するなら、こうなる。「青は、光の横溢と影の凝結の合間に出現する。」もっと厳密に言うと、光を通して、闇を見ると、青が知覚される。近代ヨーロッパ文化は、こうして、三つの闇の深淵をのぞき込むことになる。この経験は、決して、知性によって到達されなくても、知覚として、恩寵のように、私たちの前におかれている。その事実に立ち止まって、その意義を追究するかどうかは、人間の自由に任されている。 その1、地上に生きる人間が昼間に見上げる空のスカイブルーとして。 天の神秘、地の神秘、人の神秘。 もし、こう考えることができるなら、青い目の西洋人優先でなく、黒と白の間に置かれた色として、私たち東洋人の目も、同様の秘密を開示している貴いものと感じることができるだろう。 このような色彩経験に関して、いくつかの興味深い点を指摘しておこう。 1つは、オリヴァー・サックスの「火星の人類学者」に見いだされる、事故の後遺症として色彩知覚を奪われた絵かきの話だ。彼は、灰色の世界しか見えなくなった。しかし、その灰色は、ありとあらゆる深みと構造によって細分化されて、決して「灰色」という平凡な言葉で閉じ込めることができなくなったのだった。この観点は、私の昔からの関心を満足させる。ゴッホの作品の一つを写したモノクロームの写真を見たとき、私は強烈な衝撃を受けたことがある。アルル時代の色彩の解放爆発が目を奪う特徴のはずなのに、白黒の映像は、明らかに、画家がどれほど深刻に、闇と光の闘争に参加しているのかを、黙示していた。 もう1つは、アーサー・ザイエンスの「光と視覚の科学」。現代科学の最先端とかかわっているので、難しい箇所もあるが、人間存在を包括する立場から、光に関する神話、歴史、芸術を鮮やかに描いている。 多元的に語られる数多くの魅力あるエピソードの一つに、ホメロスの「赤ワイン色の海」がある。古代ギリシアの空は「青銅色の空」と歌われている。「言語学者は、ホメロスが空や海につけた無数の形容句のうち、青を意味すると解釈できるものは一つもないという。」もちろん、ゲーテはその事実に気づいていた。「1810年にゲーテが、古代ギリシア語の語法には奇妙にも青色が欠けていると初めて指摘してこのかた、青をはじめさまざまな色についてそれを表す言葉が初期のギリシアの詩に欠けていることに、学者は悩まされてきた。」 このような問題意識は、スミレ色の6月の空を眺め、大地が結晶質の青に輝くこの季節に、私たち一人一人のものになるべきだろう。
付記 ザイエンスの「光と視覚の科学」は、アメリカのヴァルドルフ学校の先生の第一級の必読図書として、推薦されている。しかし、一般の読者を対象に書かれたもので、一般の読者から大きな反響を呼んでいる。
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