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人間の心臓ドルナッハ、1922年5月26日
人の発達が生の最初の時期にどのように起こるかを私達はしばしば説き明かしてきました。歯の生え変わりまでの時期に子供がかなりの部分模倣する存在としてどのようにふるまうかを私がはじめて指摘したのはずいぶん昔のことです。多少とも本能的に―そして強烈に―子供は環境で起こることすべてを経験します。後年になると、外界の過程がこのように強烈に経験されるのは感覚器官においてだけです。しかし私達はこの事実を意識していませんが。例えば、眼において、私達は外界で起こることをある意味で模倣する過程をもちます。カメラがレンズの前にあるものを何でも複製するように、複製します。人間存在は眼においてこのように模倣的に複製されたものを意識し、こうして外界に関する情報を獲得します。他の感覚の場合も同じです。しかし模倣原理が人間有機体の末端だけにこのように限定されることは生の後の段階にのみ起こります。 歯の生え変わりまでの幼い子供時代に、体全体が、程度が少ないとはいえ、この模倣過程に参与します。この段階で、体全体はある点で、感覚が人間が生きている間保つ同じ関係を、外界と結んでいます。子供はまだ主に模倣存在です。外的事物が彼に作用する道程を子供はたどり、それを内的に模倣します。このために、幼い子供の環境で、思考と感情の形成においてすら、子供が正しく吸収し自分のものにできないものは何も生起させないということはとても大切です。 歯の生え変わりとともに子供はもう感覚器官のようにふるまわず、理念の性質において何かを同化することが可能になり始めます。子供は私達が彼に言うことを指導指針として取り始めます。以前には私達が彼の周囲ですることすべてを指導指針として受け取っていました。今や私達が言うことを把握し始めます。こうして権威は歯の生え変わりと思春期の間で決定的因子になります。子供は自分に言われることにごく自然に従い導かれます。もちろん言葉は模倣によって学習します、しかし言葉によって表現され伝達されるもの―それは歯の生え変わりの後にのみ子供にとって決定因子になります。そして真の判断力は、子供あるいは少年少女が自分の判断能力を感じさせ始めるときは、思春期にのみやってきます。そのとき初めて子供は自分の真の判断を形成し始めます。 ここまで私はごく単純に、外的観点から、子供が世界の中にどのように成長するかを述べてきました。これらの事実は偏見のない真理感覚をもつだれにでも観察できます。しかしこれらの事実は高度に意義深い内的過程と関連しています。今日お話ししたいのはそのことです。 人のエーテル体が歯の生え変わりが始まるまで肉体とどのように密接に結合して生きるかを、私はしばしば指摘してきました。ですから、以前お話ししたように、歯の生え変わりをエーテル体の本質的な誕生を表すものだと言うことができます。同じようにして私達はアストラル体の誕生を思春期だと言えます。しかしこれもまた外的解釈にすぎません。今日私達はこれらの過程のもっと内的な特徴付けに達するようにしましょう。 霊界の人を考察しましょう。肉体的受肉に降りる傾向を発達させるずっと前の人間です。私達は彼をそこに魂と霊の世界にある魂と霊の存在として見ます。私達は皆そうだったのです。私達が私達のために、肉体として、母体有機体に、準備されたものと結合するために降りる前は、純粋な魂と霊の存在でした。それからこの肉体と結合して、私達は誕生と死の間の地球存在の期間を経験します。そのずっと前に、私達は魂と霊の存在だったのです。昔の私達、そこで私達が経験したものは私達がこの地上の誕生と死の間に経験するものととても異なるものです。だから死と新たな誕生の間の経験を描くのは困難です。地上の状態と全く異なるものです。人は自分の地上の経験に基づいて理念を切り出します。描写のため私達が必ず頼みにするのはこれらの理念なのです。しかし、今日私達は魂と霊の世界内部の人間の性格にあまりこだわらないことにしましょう。むしろ、私達はまず、新たな肉体に浸透するために地球に接近するときの、降下中の彼をながめましょう。 肉体に―より正確にはその胚に、胎児に―接近する前に、人は自分にエーテル宇宙の諸力を引き込みます。この地上で私達は物質界に生きています―この世界は私達が感覚で見て、地上の知性で理解するすべてによって特徴付けられます。しかしこの世界にエーテル世界によって浸透されていないものはありません。人が―胎児を通じて―物質界と結合する傾向をえる前に、人は自らにエーテル世界の諸力を引き付け、そうする際に自分のエーテル体を形成します。しかし人がエーテル体を纏うといっても、ほとんど何も言っていないのと同じです。私達はこの体の性質と組成にもう少し親しく入りましょう。 エーテル体は、人間存在において自らを形成発達させますが、それ自体で宇宙です。絵に描かれた宇宙の形態と言えましょう。その周辺に星々の性質の何かを開示させ、その下の部分には何か地球のイメージで現れるものを開示させます。そこに太陽性質と月性質のイメージのようなものすらもっています。 これは大きな意義を秘めています。地上世界に降下するとき、自らに宇宙のエーテルの諸力を引き付けるとき、私達は実際エーテル体に一種の宇宙のイメージをもってくるのです。肉体と結合している瞬間に人のエーテル体を抽出できるなら、私達は球をもつでしょう。機械的手段でつくりだされたものよりずっと美しい球です。星と獣帯と太陽と月をすべて備えた球です。 エーテル体のこれらの配置は胎児期にはそのままです。その間に人間存在は肉体とますます融合します。それらは少し薄れ始めますが、まだ残っています。実際、7年目まで―言い換えますと、歯の生え変わりまで―残っています。小さな子供のエーテル体には、この宇宙のがまだ認知できます。しかし7年目に―歯の生え変わりとともに―私達がエーテル体に眺めるこれらの形態は、言わば、放射し始めます。以前それらはもっと星に似ていましたが、今それらは光線に似始めます。星々は人間のエーテル体に溶解します。しかしそうするとき光線になります。内で一つになる傾向の光線になります。 このすべてが歯の生え変わりと思春期の間の生の間ずっと徐々に進行します。思春期にこの過程はずっと進んでいるので、これらの光線は、この中心でひとつになり、言わば明瞭な構造物を形成します。それら固有の明瞭なエーテル構造です。星々は薄れて消えて、一方中心に集まった構造は特に生気を帯び始めます。この中心のエーテル構造のなかに、思春期に、肉体の心臓が血管系をともなって吊るされています。 だから私達は星−エーテル−体が引き込むこの不思議な現象をもちます。エーテル体としてそれはもちろん有機体の末端で未分化です。そこには識別できるものはほとんど何もありません。ところが、歯の生え変わりから思春期までの時期に、エーテル体は強烈に輝き、外側から内へ差し込みます。そのとき一つに集束し、その内側に肉体の心臓がはっきりと吊るされています。 それまで人はエーテルの心臓をもっていないのだと思ってはいけません。確かにもっているのですが、今自分のものになるであろうエーテルの心臓を獲得する方法とは異なる方法で獲得したものです。というのも思春期に生じる集束した光輝が人の真のエーテルの心臓になるからです。この時期以前に人がもつエーテルの心臓は、胎児の内在諸力によって遺産として受け取ったものです。人がエーテル体を得て、それとともに肉体有機体に入る道を進むとき、一種のエーテルの心臓が―言わば代わりのエーテルの心臓が―肉体の諸力によって一つに束ねられます。子供はこのエーテルの心臓を子供時代に維持しますが、それは徐々に朽ち果てます。これは、私達の普通の基準では、あまり美しい表現ではないかもしれませんが、状況に正確に合っています。最初のエーテルの心臓はゆっくりと朽ち、その代わりに、言わば朽ちるエーテル過程で落ちるものをたえず置換して、新しい、真のエーテルの心臓がやってきます。このエーテルの心臓は、私達が妊娠と誕生からこの地上の生に進むとき、エーテル形態としてもってきた全宇宙球の集中したものです。宇宙の忠実なイメージです。 このようにして私達は、誕生もしくは妊娠から思春期までずっと、人間存在が自らの内側に担う全エーテル形態における明瞭な変化をたどることができます。それは次のように言うことによって描くことができるでしょう。思春期になってはじめて人間存在は自分自身のエーテルの心臓を保持する。言い換えると、自分自身のエーテル体から形成された、外的諸力によって臨時に供給されたものでないエーテルの心臓を保持する、と。 思春期まで人ではたらいているエーテル諸力すべては、人にこの新鮮なエーテルの心臓を賦与しようとします。それは、エーテル球において、歯の生え変わりになぞらえられる過程です。というのも、ご存じのように、歯の生え変わりまで私達は内在した歯をもっているからです。これらの歯は捨てられ、その場は第2の歯にとられます。真に私達自身のものである歯に取って代わられます。同じように、私達が思春期までもつエーテルの心臓は捨てられ、私達は今自分自身の心臓を受け取ります。これは大切な点です。私達は自分自身のエーテルの心臓を受け取ります。 しかし今これに平行して進むもう一つの過程があります。物質世界に入った直後の人を観察すると―つまりとても幼い子供を観察すると―おびただしい数の個々の器官がアストラル体に識別できるのが分かります。先に述べたように、人は自分でエーテルの心臓をつくります。それは外的宇宙のイメージです。ところが、アストラル体に彼は、過去の死と現在の誕生の間に受けた経験のイメージをたずさえてきます。幼い子供のアストラル体にはとても多くのものが見えます。偉大な秘密がそこには刻まれています。この前の死と現在の誕生の間に人間存在が経験したことの多くがそこに見えます。さらに、アストラル体は高度に分化しています。個別化しています。 そして今、これは奇妙なことです。前述の過程がエーテル体で起こっているまさにその時に、この高度に分化したアストラル体はますます未分化になります。元来それは別世界から、物質宇宙に、いやエーテル宇宙にすらない世界から来たと言える実体です。思春期までに、このアストラル体に生きているすべてが―おびただしい数の個々の形態と構造として生きているものすべてが―肉体器官に忍び込みます。(大まかに言うと)横隔膜の上に位置するあれらの諸器官に主に忍び込みます。すばらしい構造が、人生の初期にアストラル体に放射して存在していますが、それらは徐々に脳の形成に忍び込み、感覚器官を満たします。それから、他の構造が呼吸有機体に忍び込みます。他の構造物が心臓に忍び込みます。そして心臓を通して動脈に入ります。それらは胃に直接入り込みません。腹部器官に最後に広がるのは動脈を通してのみです。こうして私達はアストラル体全体を見ます。それは人が誕生を通してこの物質存在に持ち込んだものです。私達はアストラル体が徐々に諸器官に飛び込んでいくのを見ます。諸器官にすべりこみます。この表現は現実に合致しています。当然ながら今日の習慣的な理念には奇妙に響きますが。成人になったときに、私達の器官はそこに私達のアストラル体のいくつかの形態と構造を閉じ込めています。 まさしくここには人間の諸器官のより親密な知識への鍵があります。人がもってくるアストラル体を理解しない限り人間の諸器官を本当に理解することはできません。まず第一に各器官はその内側に、ある意味で、アストラルの遺産をになっていることを知らなければなりません。はじめにエーテルの心臓が遺産であるようにです。さらに、この受け継がれたアストラル体は徐々に、人が自らのアストラル体としてもってくるものに浸透されるということを知らなければなりません。自らのアストラル体は少しずつ肉体とエーテルの諸器官に飛び込みます。 心臓は、ある意味で、例外です。ここにもアストラル部分が飛び込みます。しかし心臓にはアストラル過程だけでなく、エーテル過程も集中しています。ですから心臓は人にとって唯一無二の重要性をもつ器官です。 アストラル体はますます定かならぬものになります。というのもアストラル体は肉体器官にそれが別の生からもってくる具体的形態を送り込むからです。アストラル体はそれら具体的形態を肉体器官に送り込みます。そこでそれらは閉じ込められます。それによってアストラル体そのものが何か霧の雲のようになります。しかし―またこれは興味深いことですが―こちら側からアストラル体は霧の雲になりますが、新たな分化が別の側から入り込みます。最初はゆっくりと、やがて全き規則性で、思春期の年齢以降にはますます入り込みます。 赤ちゃんが小さな脚で蹴っているとき、アストラル体においてそれにはほとんど気づきません。確かにその結果はありますが、アストラル体がともなってきた分化ははるかに強烈なものです。徐々にこれらの形態は消えて、肉体器官にすべりこみます。アストラル体はますます霧の雲になります。子供が脚をじたばたしているとき、ありとあらゆる結果がこうした子供っぽい運動からアストラル体に入り込みますが、そこにあるものに突き当たり、投げ返されて消え去ります。空気のつまったボールを圧したようです。ボールはすぐ元の形に戻ります。しかしこのすべては、子供が話せるようになり、記憶に保持される理念を発達させるにつれて比率を変えます。私達はそのとき、彼の運動が―知能的運動、歩き回ったり、腕を動かしたりが―どのようにますますアストラル体に保持されるかを見ます。 そうです。実際言うに言えない事柄がこのアストラル体には刻み込めます。45歳のとき、あなたの運動のほぼすべてはそこに痕跡となって刻まれています。他の多くの事柄も刻まれています。アストラル体は、話と思考ができるようになってから、そしてそれ自体の配置が解けてから起こったことの非常に多くを吸収することができます。この未分化の実体に、私達が今なすことがすべて―腕と脚の運動、それだけではありません、手足を通じて私達が成し遂げるすべて―が刻まれます。例えば、字を書くときペンをもつと、外界において私達がこのようにして成し遂げることすべてがそこに刻まれます。木を切るとき、だれかをぶん殴るとき、すべてはアストラル体に刻まれます。自分では何もしなくても人に指導を与え、その人がするとき、これも刻まれます。私達の言葉の内容がその人の行為にどのように関係するかを通じて、刻まれます。簡潔に言うと、外界に表出を見いだす人の活動の全部がアストラル体に刻み込まれます。このようにしてアストラル体は私達人間の行動すべてを通して多様な形状になります。 この過程は、前に言ったように、子供が話せるようになると―発話に思考を体現できるようになると―始まります。子供が受け取るが後で思い出せない理念にはあてはまりません。それは、通常の意識で、後に思い起こせる時から始まります。 さて不思議なことに、このようにアストラル体に刻み込まれたものすべては内で出会う傾向があります。エーテル体の放射がエーテルの心臓で出会うのと同じようにです。私達の人間の行為であるすべても―これもまた内側で一つに集まります。さらに、これは一種の外的因果関係をもちます。地上の人間存在として、私達は多くの活動形態に入らざるをえません。この活動は、今言ったように、アストラル体をとおして表出されます。しかしたえまない抵抗があります。人間有機体に及んだ影響は、言わば、必ずしも上昇できません。いつもある種の抵抗があります。それらは再び押し戻されます。肉体器官に関連して、私達がなすことすべては、頭部へと流れ上がる傾向がありますが、人間組織はそれがそこに至るのを妨げます。このためこれらの影響は一つに集まり、一種のアストラル中枢を形成します。 これもまた思春期に明らかに発達します。エーテルの心臓―私達自身のエーテルの心臓―が自らを形成した同じ場所に、私達は今アストラル構造ももちます。それは私達の全行動を集めたものです。ですから思春期からは私達のすべての行い、私達のすべての活動が集中された中枢器官が創造されます。実際そうなのです。人が心臓をもつまさにその領域に、その活動のすべてが中心化されています。この場合、物質的でもエーテル的でもなく、アストラル的に中心化されています。大切なことは、思春期に(当然ながら、アストラルの出来事は物質的出来事におよそ一致するにすぎませんが)人自らのエーテルの心臓は形成が進み、外界における私達の活動から発達するこれらの諸力を受け取ることができるようになります。こうして私達は次のようにまさしく言えます。またそういうとき、私達は人間の内的存在における現実の出来事を表しているのです。思春期以降人の全活動は、アストラル体を経由して、エーテルの心臓に差し込まれる。星々の映像から、宇宙の映像から成長したものに挿入される。 これは言うに言われぬ重要性をもつ現象です。皆さん、というのも私達はここに、人がこの世界でなすことと宇宙との結合をもつからです。心臓に、エーテルの宇宙に関する限り、皆さんは中心に集められた宇宙をもちます。一方、それと同時に、アストラルの宇宙に関する限り、皆さんは人が世界でなすすべてを一つに集めたものをもちます。これは宇宙が―宇宙的過程が―人のカルマと接合されている点です。アストラル体とエーテル体とのこの親密な照応は、心臓の領域を除けば人間有機体のどこにも見いだせません。しかし実際そこには照応があります。人は誕生を通してエーテル体に宇宙のイメージをもってきました。そして彼の内側に本質として存在する全宇宙が彼のなすすべてを受け取りそこに浸透します。このたえまない出会いによって―この相互浸透によって―人間の行動が宇宙のイメージの本質にしみこむ機会が人生で与えられます。 人が死の門を越えるとき、このエーテル―アストラル構造は―そこにいわば心臓が浮かんでいるのですが―肉体とエーテル形態をおいた後、魂と霊のさらなる生に人が持ち込むすべてを含んでいます。さて、霊においてさらに拡大しながら、彼は自分のカルマのすべてを宇宙に手渡すことができます。というのも全宇宙の物質が彼の内部に含まれているからです。それは心臓に、彼の心臓のエーテル体に集束されています。それは宇宙から来たもので、このエーテル実体に変化しました。そして心臓の本質として集めあげられました。それが今再び宇宙に帰ろうとしています。人間存在は宇宙に広がります。彼は魂たちの世界に受け取られます。彼は『神智学』に、私が魂の世界の通過と霊の大陸の通過として描いたものを経験します。 実際にそうなのです。人間組織をその生成において考察すると、私達はこう言えます。心臓の領域で、宇宙と地球領域の結合が生じている。そしてこのようにして宇宙が、その宇宙の形状とともに、私達のエーテル体にとりこまれている。そこでそれは私達の全行動を、私達が生においてなすすべてを受けようとします。そして私達はまた外へ行きます。宇宙エーテルが私達自身の人間行動とこのように親密に浸透することによって私達の内部に形成されたすべてをともなって行きます。そうして私達は、死の門を通過した後、また新たな宇宙的存在に入り込みます。 このようにして私達は全く具体的形態で人間存在がどのように肉体に入る道を生きるか、どのようにそれからまた自らを引き出すことができるかを述べました。なぜなら彼の行為は彼に宇宙から本質としてまず自分自身の内に形成したものを集めて保持する力を与えているからです。 皆さん、物質体は遺伝の力によって、すなわち、胎児の諸力によって、物質と地の世界内部で形成されます。霊界から人がたずさえてくるものは、まずエーテル体にひきつけて集めて、胎児と結合します。しかし私達はさらに進まねばなりません。人がたずさえてきたアストラルのあのすばらしい実体には、多くの地上の生を通過し、長い進化を背後にもつ自我が生きています。この自我はアストラル体に存在するすべての複雑な形態とある種の共感関係に生きています(この関係で「共感」という言葉を使うことによって私はもう一度絶対的に実在であるものを描いています)。そのとき、これらのアストラル形態が、先に説明したように、物質の諸器官にすべりこむとき、自我はこの共感を維持し、この同じ内的共感を器官自体まで拡張します。自我はますます諸器官に広がり、それらを所有します。実際、最初期の子供時代から、自我は諸器官とある種の関係にあります。しかしその時には、内在した状態がまだ優勢です。ですから諸器官の自我に対する関係はより外的なものです。 やがて自我がアストラル体とともに物質の諸器官に入り込むとき、こういうことが起こります。幼い子供において自我は血液の道筋に外的にしか存在しなかったのですが、今や自我はますます内的に、ますます強烈に血液循環と結合し、最後には―思春期に―最も完全な意味でそこに入り込みます。エーテルの心臓と物質の心臓のまわりにアストラルの形成物をもつとき、自我は別の道をとります。肺の器官にすべりこみ、肺から心臓へいく血管とともに心臓にますます近づきます。血液循環とますます密接に結合して、自我は血液の道を行きます。血液の経路を走る諸力によって、自我はエーテルの心臓とアストラルの心臓の結合から形成されたものに入り込みます。そこで宇宙から来たエーテルが私達自身から来るアストラルと一緒になって成長します。 既に述べたように、このアストラル体ははかりしれない量のものを徐々に含むようになります。というのも私達の全行動がそこに書かれているからです。しかもそれだけではありません。自我がアストラル体がなすことすべてと共感関係にある限りにおいて、私達の意図、私達の理念もそこに刻み込まれます。私達が行為をなすもとになる意図と理念という意味です。ここに、皆さんはカルマと全宇宙の法則の完全な結合をもちます。 このように人間存在内部で起こることすべてについて、人々は「心ないほど」知りません。力を込めてこの言葉を繰り返すことができます。というのも、人々が今日無知であるこれらのことすべては人間の心臓に関係しているからです。人々はこの物質世界で起こることを知っています。そしてそれを道徳的法則との関係で考察します。真の事実はどうかというと、道徳生活において起こることすべてと、物質的に世界において起こることすべては、まさしく人間の心臓に集められます。この2つは―道徳性と物質性は―それぞれ独立して走りながらも今日の近代的意識にとって隣り合わせにありますが、人間の心臓の全形状を理解できるようになると、両者の真の結合において見いだすことができます。 当然ながら、心臓で起こることすべては、歯の生え変わりとともにあからさまに起こる事件より遥かに隠されたものです。私達は受け継いだ歯をもっています。それから自分自身の有機体からまた歯を形成します。乳歯はぬけおち、新しい歯が残ります。前者はだめになる内在傾向をもっています。たとえぬけおちなくとも、無傷でとどまることはできません。ところが、永久歯は主に外的状態によって破壊されます。もちろん有機体そのものの状態もそこには含まれます。それと同じようなことが思春期に起こります。すなわち、眼に見えないのですが、私達のエーテルの心臓は分解にゆだねられます。そして今私達は一種の永久のエーテルの心臓を獲得します。 この永久のエーテルの心臓だけが自らに私達の活動を受け入れるのに十分適応しています。ですから人間存在が思春期前に死ぬか後に死ぬかは大きな差がでます。思春期前に死ぬと、彼は地上でなしたことがカルマ的に後に継承される傾向だけをもちます。子供が思春期前に死ぬときでも、あれやこれやがカルマに確かに組み込まれます。しかしそれは必ずかなり曖昧でつかの間のものです。正しく言うと、カルマの形成はアストラルの心臓がエーテルの心臓をつかみ一緒になる瞬間にのみ始まります。これは、実際、カルマを形成する有機体です。というのも、死に際して、人間存在に集められて集中されているものはますます宇宙的になり、私達の次の地上の生においてそれは宇宙から再び人間存在に組み込まれるからです。したがって、私達がなすことひとつひとつが私達自身だけに係わっているのではありません。私達の内部に組み込まれているのは、宇宙から来て、死後に、私達の行為を宇宙にもう一度ひきわたす傾向を保持している何かなのです。というのも、カルマの法則が作用し、私達のカルマをつくりだすのは宇宙からなのです。ですから私達は、新たな地上の生の始まりにおいて、宇宙が私達の行為をもう一度地上の生にするものの諸効果を担っているのです。
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