タイ農民銀行
 

2000年10月、タイ農民銀行より同銀行のスポーツ部全4部門所属の選手に対し、特別ボーナスと最後となる10月分の給与が支払われ、タイ農民銀行サッカー部事実上の解散が決定的となりました。
タイ、そしてアジアサッカー界に彗星のように現れ、大きな足跡を残しながらもあっという間に消えていってしまった彼らの話です。
 
国外タイトル
1993、94年
 第13、14回アジアクラブ選手権 
1994年
第9回アフロ・アジア選手権
主な国内タイトル
 1991、92、93、95年 
タイ1部国王杯
1994、95、96、97年
クイーンズカップ
1999年
ホンダFAカップ
 

★アジア連覇の栄光
1987年4月18日、タイ農民銀行サッカー部が誕生。下部リーグからのスタートながら、タイでは異例のスピード出世の後、4年目の1991年にはタイ最高峰の1部国王杯を制してしまう。
タイ農民銀行の驚異的な進撃はさらに続き、タイ1部国王杯は3連覇を含み計4回の優勝、クイーンズカップ4連覇をはじめ国内の大小大会に多数優勝、または好成績を残す。そしてなんといってもタイサッカー史に残る金字塔は1994年、1995年に打ち立てられました、それはアジアクラブ選手権の連覇達成です。

当時のアジアクラブ選手権に関しては日本がJリーグ開幕直後で、韓国、中国を含めた東アジアの有力国は現在ほど充実したチームを送り込んでいなかったため評価を低くみる考え方もあります。しかし同チームをよく知っている、または実際に試合を見た方々の評価は決して低くありませんし、Pポンも非常に高く評価しています。
選手個々やチーム自体の実力が当時のアジアチャンピオンとして恥ずかしくないのはもちろんですが、総合的に考えてもタイ農民銀行の完全な勝利といえます。

サッカーの国際試合は国力のぶつかり合いでもあり、ファーストクラスで移動、最高級ホテルに泊まり、コックを連れていき食事を用意、コンディションを最高に保って勝つ。タイ農民銀行がこんな贅沢できるわけがありませんが、試合をホーム開催に持っていく、国内のスケジュールを調整する、といった裏での努力はしていました。逆に敗者となったアジアの強国がベストメンバーを組めなかったのは、国内スケジュールの都合とか、大会軽視とかいう以前に余裕が無かった、つまりは同大会で優勝できるチーム力、政治力、国力が足りなかったのです。

サッカーをよく知るファンは連覇の方がすごいと言われるかもしれませんが、タイのサッカー事情は少しおっとりしているため、優勝後の有力選手の引き抜きなどによる戦力離散には数年かかりました。アジアクラブ選手権を連覇するには国内リーグで優勝後2年、最低でも3年間はチーム状態を良く保つ必要がありますが、タイ農民銀行にそれが可能だったのはやはりタイのクラブであったのが有利な点でした。
とにかくはチームの実力、国力(主にタイのサッカー事情)などのバランスが当時最も優勝に近かったのがタイ農民銀行だったということです。

★アジア制覇の戦士は今
2000年シーズンの時点でタイ農民銀行に残って活躍していたのは、ニポン、パーヌワット、ティーラユット、モントリー、チョークタウィー、セクサンですが、アジアクラブ選手権当時レギュラーといえたのはニポンとパーヌワットのみです。他のクラブへ移籍して現在も活躍中なのは、ウォーラウット(BECテロサーサナ)、サノ(電力公社)ぐらいで、あとは引退または一応サッカーを続けているといった程度です。

当時のエースとして大活躍したネティポン・シートーンインはアメリカに渡り英語&ビジネスの勉強、そしてゴルフにチャレンジしています。主将のサッチャー・シリケットはタマサート大学サッカー部監督。ミニ将軍サソム・ポッブプラサートはBECテロサーサナのプレーイングマネージャーを経て現在も同チームのスタッフとなっています。
タイ随一の名監督チャーンウィット・ポンチーウィンはタイ農民銀行のスタッフにはとどまっているものの、ほとんどU19代表監督の仕事に集中。

★晩年、そして
チームをまとめるチョークタウィーら生き残り?の他、主力はいずれもユース等なんらかの代表歴を持つ選手がそろっていました。現役代表はチョークタウィー、タノンサック、スティーの3人ながら、ユース時代世界を経験しているティーラサック、バムルン、ケー、シッティチャイらをはじめ、五輪、学生代表などを含めると登録メンバー25名中22名にものぼります。

ただし、ここ数年リーグ戦で結果が出せなかった理由としてもあげられるのですが、主力がみな20代前半と若く老獪な選手のそろうタイリーグではもうひとつ何かが足りませんでした。そんな低迷期を脱するきっかけとなったのが1999年末のホンダFAカップ優勝で、家庭の事情でチームを離れていたパーヌワットの復帰も大きかったのですが、翌2000年にははっきりとタイリーグで戦う経験というか貫禄のようなものが供わっていました。

優秀な若手を育てることに成功、タイ農民銀行第2期黄金時代の到来かという時、まさに突然やってきた終焉でした。悪い噂は聞こえても、いくら親会社が不調とはいえこれだけの実績を残したクラブを簡単に潰してしまうとは誰が予想できたでしょうか?親会社の発表は活動停止、つまりはいつか活動再開の日が来ると考えられる、しかしタイ最高の練習施設、そして指導スタッフを持ち、若手を中心に充実した戦力が整う、こんなクラブをまたつくり直すのはどれだけ大変なことか…。

★TFBCファンクラブ
タイ農民銀行スポーツクラブのファンクラブ。サッカー部、バスケットボール部、バレーボール部、バトミントン部の4つのスポーツ部を対象にしたファンクラブで1996年1月設立。ライオンのイメージキャラクターで多数のオリジナルグッズを作製、モデルにサッカーのネティポン・シートーンイン、女子バスケの美形で人気のシリラット・ヨンヨーティンクンを起用して派手にスタートした。

サヤームスクエアにはオリジナルグッズを販売するショップ(兼事務所)まで出したが、タイの常識では非常に高い会費などで結局は大失敗に終わり、数年後には自然消滅?した。ちなみに『誰がこんな高い会費を払って…』などと言いつつも会員となってしまったPポンですが、いつのまにかショップが閉鎖されたのを知った時はちょっと文句を言う程度で、まさかクラブ活動停止にまでなるとは思いもしませんでした。

入会費600バーツ、年会費200バーツ、18歳以下は半額。会員得点はタイ農民銀行の各スポーツクラブ主催または出場の試合が入場無料、オリジナルグッズの割引など。サッカーの場合タイリーグの試合入場料が50バーツなので元をとるのは簡単だが、実際に利用している人は見たことがありませんでした。


 

★アジアスーパーカップの激闘
アジアのクラブタイトル最高峰といえるアジアスーパーカップ、その記念すべき第1回チャンピオンを争ったチームがどちらも既に存在しない。1994年、アジアクラブ選手権覇者のタイ農民銀行とアジアカップウィナーズカップ覇者横浜フリューゲルスの対決はホーム&アウェイのトータル3−4でフリューゲルスが勝利しました。

タイでの試合はスパンブリーで行われたのですが、たいした情報もなく見に行った直前の練習でビックリしました。田舎臭いスパンブリーの中学校で、なんとあのジーニョ、サンパイオ、エバイールがボールを蹴っているのです。Pポン以外の見学者は地元の子供の一団のみ、主将の山口も代表戦後ながら合流していて、寂れた雰囲気になんともミスマッチな練習風景でした。

翌7月29日、フリューゲルスの本気度が伝わってくるのに喜びを感じ、翌日バンコクより2時間ちょっとの道程をまたもや走る途中なぜか突然車がパンク、かなり焦ったがなんとか試合にはセーフ。
試合はジーニョがさすがのフリーキックを決めフリューゲルスが先行。日タイ戦は、タイでの試合は日本応援、日本での試合はタイ応援、中立地では中立、と決めていたPポンなので一応喜んでいました。しかしタイ農民銀行も頑張る、自慢の攻撃力で攻め込むがなかなか得点出来ない。このままフリューゲルスが逃げ切るのかと思われた試合終了直前、CKからタイ農民銀行がなんとか同点に追いついた、結果は1−1。

8月2日、中3日で日本へ移動、当然フリューゲルスの優位が予想された試合はパーヌワットのゴールでタイ農民銀行が先行、前半を1−0で折り返す。後半三浦からのボールをエバイールが決めフリューゲルスが追いつくが、ネティポンのゴールで2−1となる。
2点が必要となったフリューゲルス、しかし残り時間は10分を切りタイ農民銀行が初代王者をほぼ手中にしたかという瞬間、山口、さらに終了直前の吉田と連続ゴールでフリューゲルスが逆転優勝を決めた、結果は3−2。

惜しくも敗れたタイ農民銀行だが、ホームでの試合が後だったらひょっとしたら結果は逆だったかも。とにかく何かの縁というかその後両チーム共に解散となってしまったが、いつの日かどちらも復活なんて時が来たら、ぜひとも親善試合などの交流を行って欲しい。その時はPポンもネティポンのサイン入りシャツを着て、ジーニョのサイン入りフリューゲルスの旗を持って応援に行きます。