僕の独り言

 

6月22日

 「情けは人の為ならず」この格言を、今教えている役者の卵達に言って、愕然とした。意味を知らないのである。私の出した課題が出来ないで泣いている女優の卵にはたはた困り果てた私は、

「情けは人のためならずだよ。」と言って、誰か彼女を慰めてくれと頼んだはずなのだが、誰も彼女を助けようとしない。訳を聞いたら、「情けを人に掛けてはいけない。情けを掛けることは人を一段低く見ることであり、自分を優位に見せることであるから、人に情けを掛けてはいけないと言うことだと思って・・・。」

と、こうである。全く情けない。

「情けは人のためならず」とは、「情けを人に施すことは、いつかは自分に返ってくることである」つまり、情けを掛けろと言うことなのだが、自分の教え子が情けなかった。

 さらに、一生懸命は誤用で、「一所懸命」が正しいと言っても分かってもらえなかった。昔、荘園制度盛んな頃、一つの所を懸命に守り、繁栄させていくことが語源なのだから、一生懸命などと言う言葉は、存在しないはずである。

 誤解を招かないように言っておくが、私は右翼ではない。しかし、我が国を、「にほん」と呼ぶ輩には、憤りさえ感じる。「にっぽん」が正しい。

 海外ではJAPANと呼ばれるのも、オランダだか、ポルトガルだかの人間が、「にっぽん」を「じゃぽん」と発音したか、聞き間違えたか、その「じゃぽん」の英語読みが「JAPAN」なのだ。

 さて、何で今日はこんなことを書き始めたかと言えば、見るに耐えない日本女子バレーの戦いぶりを見させられて、頭に来たからである。

 その中で、唯一の救いは、彼女たちの戦いぶりではなく、観客の「にっぽんチャチャチャ!」であった。もちろんこれは、メキシコの応援の仕方のまねなのだが、あのマナーの悪い、相手国のファインプレーを見ても何も拍手さえしない観客でさえ、「にっぽん」と呼んでいたのだ。我が教え子よ、自分の国の名前ぐらいちゃんと覚えて貰いたい。

 前にも書いたが、日本女子バレーのふがいなさはなんだ。実は私は戦う前から、日本女子のシドニー行きなど絶対ありえないと思っていた。

だから、今回はオリンピック出場権をとることが出来ないだろうと、かなり前から予測していた。予想に関しては、その辺の素人には負けない。毎週大枚を賭けているのだ。

 何故、女子バレーが敗退すると思っていたか。調教・・・いや、練習風景にその答えはある。テレビでその模様がかなり前から流れていて、その風景を見たら、もう、負けを確信した。グラスワンダーが4コーナーを回ったときも負けを確信したが、それ以上に確信した。

 なんという監督か知らないが、未だに「根性論」で選手を怒鳴りつけ、選手に涙を流させ練習をしている。こんな練習は前近代的な練習方法だ。そんなことで強くなれるなら、うちの劇団だって強くなれる。私はほとんど怒鳴りっぱなしだからだ。しかし、うちの劇団については今、問題ではない。日本女子バレーを根底から変えないと、日本女子バレーの将来はないと嘆いているのだ。

 かつて日本女子バレーは、回転レシーブを発明し、クイックアタック(いわゆるAクイック)や、平行速攻(Bクイック)、時間差攻撃、ブロード攻撃、ジュンサンダースに至っては、X攻撃、稲妻サーブと数々の技を編み出して世界に君臨していたではないか。今更、根性論での試合は無いんじゃないか?もっと策があったろう。

 他の国では、オリンピックに出られると、それだけで報奨金が出るらしい。お隣の韓国に至っては、メダルに届けば、一生生活に困らないほどの年金が支給されるそうである。

 そこへいくと日本はどうだ。プロ化は誰かの圧力で無くなってしまい、彼女たちの行く末は、そのままOLとして会社に残るか、結婚してしまうか位しか道が残されていない。

 ならば、日本だって、彼女たちにオリンピックの切符をとったら、褒賞として何か与えなければならなかったのではないか?

 日本のサッカーが強くなったのも、プロ化はもちろんだが、自分たちには実力次第で、何億にもなる未来が待っていると思えたからこそではないのか。サッカー協会も無い頭で考え、日本の売れない下半身のゆるんだタレントを、あてがう策まで出たのが功を奏した。

 野球もしかりである。アメリカとアマチュアランクで戦うとそれなりの成績を収められるのは、プロがその先にあり、実力次第で稼げる未来が待っていることと、放映権を盾に、女子アナウンサーをあてがってやる、その策が、強くしているのだ。(え?あてがってない?そんなことしらん!)

 兎に角、日本女子バレーを強くするには、今のような根性論ではなく、彼女たちの未来に、希望を与えることだと思う。バレーボール協会も、医者の10人や20人用意して、「君たちの結婚相手は任せなさい」

位のことは言っても良いのではないか。そんな医者はいないって?

そんなことはあるまい。お金を積んで、医学部に入学した馬鹿医者どもが沢山いるではないか。日○医学部の9割はそんな馬鹿ばかりだ。

 どうか、日本バレー協会の皆様。日○大学から、医者の卵を何人か捕まえてきて、彼女たちにあてがって下さい。そしたら、オリンピックなんてすぐですから。

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6月18日

 勇気を出して言ってしまえば、私は子供の頃、父親のことを『パパ』。母親のことを『ママ』と呼んでいた。どの面(つら)をさげて・・・と言いそうな奴の顔が33人は浮かぶのだが、本当のことだから仕方がない。

 大体、人の名前を呼ぶには勇気がいる。たとえば、芸能界では、先輩か後輩か分からないので、はたまた、そいつは売れている役者なのか売れていない役者なのか、これから上昇していく役者なのか、過去に売れていた役者なのか分からないため、名前の後に、○○選手と何故かつける。もしくは、名字の前の言葉をとり、私なら、『相ちゃん』(あいちゃん)。山田なら、「やまちゃん」と呼んだりする。それが、スムーズにことを運ばせる呼び方なのだ。

 では、恋人同士ならどうだろう。出会った頃は名字で呼んでいたのが、いつの頃か、名前を呼ぶようになる。意識して呼び方を変えるときが必ずくる。そして、子供が産まれたら、『お父さん』『お母さん』と子供を中心とした呼び方に変わる。繊細な私は、こういうところにも気を使ってしまうのだから可愛いものだ。さて、『パパの話』に戻ろう。

 そして、いつの頃からか、私は両親を『親父』『お袋』と呼ぶようになった。それは大人への登竜門なのかもしれないが、『パパ』から『親父』に変えるのは、それなりの儀式があったと思う。その儀式は、私も緊張したろうが、親父も緊張したに違いない。『パパ』から『親父』へはベルリンの壁よりも高い、隔たりがあるからだ。はっきりとは覚えてないが、その儀式は中学生の頃に執り行われたと思う。

 いきなり『おやじ』とは呼べず、『・・・ほにゃじ・・・』と、口の中で、もごもごと切り出したはずだ。おやじにはその呼び名が聞こえたのか聞こえなかったのか・・・

緊張の一瞬だ。おやじは緊張しながら、こう応えた。

「な、な、な、なんだ!息子よ!」

 

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6月14日

 今から30年ほど前。私は小学生だった。相当なまじめな小学生だったと思う。毎日、合唱に明け暮れ、TBS子供音楽コンクールとかNHK合唱コンクールとか、結構メジャーなコンクールに出場し、賞を総なめしていた。

 合唱団と私とは想像をリンクするには相当な努力が必要だと思う。どう見ても、私は合唱をする人間には見られない。それは今の風体から想像すれば、しょうがないことと思う。

「そりゃーね、男も40すぎれば・・・」

 あの頃、私の家から、小学校まで2キロの道のりを歩いて通っていた。この季節になると通学路には田圃が広がり、家々の軒先には紫陽花(あじさい)の花が咲き乱れていた。

 田圃(たんぼ)には、鷺(さぎ)や、様々な野鳥が飛来していたと記憶している。それがどうだろう。今や、そんなもの拝めやしない。

 田圃はあるのだが、何故だか、鳥たちの姿を見ることが出来ない。

 私の父は、しがない公務員であった。農業研究所の研究員で、病害虫の研究を生涯の仕事としていた。私とは頗る(すこぶる)仲が悪いのだが、今や居候の身・・・仲良くしないと、飯も食わせてもらえない。

 ご機嫌伺いのつもりで、田圃の現状を聞いてみた。すると、先ほどの疑問点の答えが見事に返ってきた。つまり、こうだ。

「昔は、田圃に鷺たちが食べる生き物がいた。今だっていないことはない。ただ、その餌となる生き物が大きく育たない。それは、どこに原因があるかというと、用水路にある。昔は、田圃と用水路の高さが同じで、用水路から、フナや、タニシが自由に田圃に入ってこられた。しかし、今の用水路は、田圃の高さより、低い位置にあり、育ったフナやタニシが入ってこられなくなった。だから、今の田圃は、鳥たちの餌場として成立していないんだ。」

「何故、用水路の高さが低くなったの?」

「農業の機械化だね。大きな農業機械を導入するには、堅い地盤が必要になってくる。何トンもある機械を動かすには田圃を普段から固めておく必要があるんだ。だから、田圃を使わないときには、水をすべて、用水路に流して、干からびせて地盤を固める必要がある。水がないところではフナも、タニシも育たないだろう?」

 うちの父もなかなかのものである。少し尊敬してしまった。あれ程敵対視していた父親が、尊敬の対象となった記念すべき日である。

 女心と秋の空・・・と言われるが、男心は紫陽花の花のように変化するらしい。

 

6月8日

 東名の用賀インターを下り、246号線を上る。所属事務所が四谷にあるため、この路線はよく使う。今日はやけに警官が多いと思っていたら、交通規制である。車が全く動かない。まあ、そんなに焦ることではないからと、カーナビをテレビに変えると、元首相の葬儀の模様が流れていた。

 それにしても日本という国は不思議な国である。一国の首相が亡くなり、その葬儀をしているというのに、同じ番組で、誰が別れた、誰がくっついた、と相変わらず芸能ニュースが流れている。全く持って、文化の低い国だ。

 今日が葬儀であったのを知らなかった私は、少々自分を恥じた。私は小渕元首相とはなんの利害関係も無いが、自分の国の元首がお亡くなりになったわけである。たとえ、政治的理念は違おうとも、たとえ、能なし野郎と心の中で思っていても、礼儀は尽くすべきである。

 しばし、車を止め黙祷する。

 清らかな気持ちになって、昼食を取ろうと、傍らのファミリーレストランに車を入れた。別にファミリーではないが良いだろう。

 と、そこには、自動ドアがあった。

 今日言いたいのは、この「自動ドア」についてである。

 そこにはこう書かれていた。「軽く指で触れてください」

 自動とは「自ら動いてくれる」訳である。「軽く指で触れたら」自動ではないではないか。どう考えても、指が触れた勢いで開いたとしか思えない。百歩譲って、指が触れたエネルギーによってドアが開いたのでは無いと言うことにしよう。しかし、私は明らかに、指をドアまで持っていった。「自ら動く」前に、私の方が動いた訳だ。自動ドアは私に謝るべきだ。「私は自動ドアなどと、威張ってみたものの、あなた様に、無駄な動きをさせてしまいました。自動ドアなら、あなた様の動きを予測し、自ら開くべきでした。余計な動きをさせて申し訳ありませんでした。」その位の言葉があって、良いのではないか。

あのドアは「自動ドア」ではなく、「半自動ドア」と呼ぶのがふさわしいと思う。

6月7日

 湘南の気温は30度を越している。これはもう、夏といっても良いのではないだろうか。実際は梅雨に入る前の「3日晴天」と言うのだそうである。うちの父と母の実家は両方とも農家なので、「梅雨前の3日晴天」は常識なことであるそうである。昔の百姓は体験として知っていたのだろうか。

 この暑さの中にいると、10年前のことが思い出される。私は、役者として食えるようになるまで、CMのキャスティング(配役)と言うのを副業でしていた。

 その頃はバブルの絶頂期で、何本ものCMが制作されて、普通なら、制作会社のAD(アシスタントディレクター)がキャスティングやオーディションの手配をするのだが、手がけているCMの本数が多いのと、タレントやモデルの所属事務所の多様化に対応できず、「キャスティング」という職業が生まれた。我ながら先見の明があったと思う。

 もちろん、キャスティングの仕事は大当たり。随分と儲かった。

 いや、そんなことを書こうと思っていたのではない。私はCMについてはプロ並みだと言いたかったのだ。

 その私が気になるCMが今2つほどある。

 一つは、「ツカサのウィークリーマンション」のCMである。

 登場している女の子のモデルに、清潔感がなさすぎる。どう見ても、ディレクターの趣味とは思えない。(たまにはそう言う趣味のディレクターもいるのだろうが)では、誰が、彼女らを使っているのだろうか。

 きっと、ウィークリーマンション社長の趣味なんだろうな。コマーシャルを見ていると、女性には節操がなさそうな顔をしているもんな。キャバクラなんかに、出入りしていそうな気がしませんか?ああいう女の子が出演しているCMがどう見ても、売り上げに貢献しているとは思えない。

 もう一つは、(こちらの方が笑えるのだが)JTの「私は捨てない」

CMだ。テレビでたばこの直接的なCMが禁止されてから2年が経つ。

だから、日本たばこも必死である。何とかたばこをイメージしたCMしか作れない。よく見ていただければ分かるのだが、外人が出演しているCMもたばこは持つのだが、決してすわない。企業CMの範疇を抜け出さないでいる訳である。たばこというイメージだけを何となく伝えることに終始しているから、いったい何のCMかこれまた分からない。

 私が言いたいのは外人バージョンではない。真田広之さんが出ている「私は捨てない」シリーズだ。実は何年か前に、真田さんとはNHKの

大河ドラマ「太平記」で共演している。だから、あまり悪口は書きたくないのだが・・・(だって、本当に良い役者なんだもの。人間的にも最高な男だと思うし)

 しかし、どうしても言いたい。「私は捨てない」といっているが、おまえは捨てられただろう、女に!

 

6月4日

 どうも不自然でしょうがないので、異論反論がくるのを覚悟で書く。

 朱鷺(とき)の雛が孵(かえ)って、ニュースになって久しいが、俺は絶対あんなもの認めないぞ。昨日の続きで書けば、「無くなるものは無くなるべきだ」である。もちろん積極的に殺してしまえと言うわけではない。

 しかし、今行われている朱鷺の繁殖(人工)は不自然で仕方がない。

 中国から借りてきた朱鷺をつがいにして、これから何回か雛を生ませるに違いない。とっても不自然だ。

 人間の生活圏が広がり、森林を伐採、空気の汚濁等、朱鷺が絶滅しかけてきた直接的な原因はあるのだろう。これは人間が朱鷺を絶滅させるのと同じだと考えているのだろうか。その罪滅ぼしに、種族の絶えるのを防ごうと思っているなら、人間は尊大すぎる。

 人間が生まれて50万年。もしかしたら、100万年前に人間は生まれていたかもしれない。その間に、死滅した生き物は数知れず、それはごく自然に死滅していった。人間の乱獲にあって無くなったものもあるだろう。だが、極自然に無くなっていったのである。自然淘汰だからだ。

 これからさき、生まれてきた朱鷺の雛は、何十年にわたって、近親相姦が繰り返されるのだ。考えただけでもおぞましく、人間の欲望(私たちは悪いことをしていませんということを隠すための)の犠牲に朱鷺はなっていくのであろう。

 そんなことより、今危ないのは、人間の存続であると言うことに早く気づくべきである。

 

6月3日

 アメリカにも困ったものだ。また日本に難癖をつけてきた。捕鯨についてである。日本人が何を食べようが勝手だろう。人の国の文化まで口を出してくるなと言いたい。少なくとも私は、隣の家の食卓に文句は言わない。たとえ、私が、出戻りの身で、沢庵(たくあん)だけの食卓で、隣家がフランス料理でも。

 何故、鯨を食べてはいけないのか。アメリカの言い分はこうだ。

「鯨は哺乳動物だ。人間の仲間だ。食べるのはけしからん。」

 なんという説得力の無い言葉だろう。「鯨が哺乳動物」だから、食べるなと言うなら、牛はどうなる。牛は哺乳動物ではないのか?おまえらアメリカ人に、「牛は哺乳動物だから、食べるな」と言ったことがあるか?

 さらに言えば、おまえら中国に向かって「猿を食うな。人間を食べてるのと同じだぞ」と言って見ろ。日本はアメリカの植民地だから言えるんだろう?全く、弱いものばかりいじめやがって。泣いちゃうぞ・・・

 また、アメリカ人はこうも言う。

「鯨の頭数が少なくなって居るではないか。牛は沢山居る。」

 ならば問いたい。その判断は、「多いか少ないか」なのだろうか、と。

数の問題なのか・・・なんという価値観なんだろう。

 食は文化だ。人の国の文化にいちいち文句を付けて貰いたくない。

 無くなっていくものは、無くなっていくのである。これは自然淘汰と言って、ダーウインが「種の起源」で力説しているところである。中学2年の1学期に習うはずである。私は、佐藤先生に習った。アメリカに佐藤先生の派遣を考えているところである。

 

6月1日

 世の売れっ子作家は大抵「青春3部作」を書いている。この「3部作」というのは何なんだろう?何故か「3部作」である。映画にしてもしかり、「3部作」と謳われたものが多く見受けられる。

 私など、この「3部作」という文字だけで、もう見たくてたまらなくなる。何故だろう。「3部作」には、何か人を引きつけるものがある。糸井重里あたりが、舌を巻きそうなコピーだ。

 それはまるで、「芸術祭参加作品」とチラシに書かれている芝居に似ている。(テレビでも映画でもこの手はよく使われる)大した芝居ではないが、「芸術祭参加」という文字に騙されてしまう。よく考えてみれば、芸術祭に参加しているだけで、芸術祭で優秀だと認められたわけではない。(ことわっておくが、芸術祭自体を認めているわけではない。正直言って、軽蔑さえしている)

 映画では、「アカデミー賞ノミネート」という、これまた困ったコピーが存在する。ノミネートの枠は相当広い。なのに、「アカデミー賞ノミネート」の文字に負けてしまうのだ。(またまたことわっておくが、アカデミー賞受賞の作品が良いといっているわけではない)

 さらには、履歴書にも存在する。芸能界では、タレント名鑑に「文学座出身」と金看板を掲げる輩が多い。しかし、ほとんどは文学座養成所出身なのである。(三度(みたび)ことわっておくが、文学座が凄いと言っているわけではない。むしろ軽蔑・・・いや・・・止めておこう)

 実は私は「青春3部作」を書いている。なのに、反響が無い(笑)だからひねくれてこんな駄文を書いているのだが、自分で駄作だと思っていた前回の「スクリーンいっぱいの飛行機雲」が評判を取ったりしてしまう。うーん・・・世の中難しい。

 後は、文豪が必ず書く「堕落論」を書けば、僕も作家の仲間入りが出来るのであろうか?銀座あたりで、文化を背負った風のお酒が飲めるのであろうか?

 どうでも良いんですが、そんなこと。

 

5月29日

 やっと衣装合わせが終わった。全く、最近のドラマっていう奴は、リハーサルってものをしないから、監督と話が出来るのは、この衣装合わせの時と、本番だけ。だから、いいドラマなんて出来やしない。悪循環なのをみんなが知っているのに、直そうともしない。映画産業が落ちぶれてしまったのも分かる気がする。そして、次はテレビだ・・・

 さて、時間にルーズな私は、初めての監督さんと仕事をするということで、時間を計算できる電車で行くことにした。ここで、今日、ここに書くネタは見つかった。

 未だに、馬鹿なJRは

「駆け込み乗車をしないでください!」

とドアが閉まってからアナウンスをしている。違うだろう?ドアが閉まる前に注意すべきであろうが!アナウンスは、駆け込み乗車をした人に

「おまえは悪い奴だ」

と言っているのであろうか?

「近くにご乗車のみなさま、今駆け込みしてきた人を睨んでください。辱めてください。」そういっているとしか思えない。いやな習慣である。

 駆け込み乗車を無くすなんて、簡単である。私に聞きに来なさい。教えてあげるから。

 まず、「タイムラグ」を無くせばいい。

 どういうことか・・・駆け込み乗車をする人間の心理を考えれば簡単だ。人間は誰でも、早く目的地に着きたいときがある。だから、目の前にある電車に飛び乗りたくなる。正直に言えば、私だって、何度もある。みなさんだってそうだろうと思う。もしかしたら、ドアが閉まる前に乗られるかもしれない・・・そう思って、飛び乗ったことは誰だってあるはずだ。

 ここに、回答はあるのだ。「もしかしたら、まだ閉まらないかもしれない・・・」そう思わせてしまうところに、駆け込み乗車は存在する。つまり、いつもドアが閉まるタイミングが違うのである。それは車掌のタイミングなのか、駅員の合図なのか、とにかく、その係りの誰かか分からないが、ーーーいや、同じ人がやっても違うのかもしれないーーー

その人のタイミングが微妙に違う。音楽が鳴りやんでから、さらに5秒ある人。3秒ある人・・・車掌と駅員のタイミング・・・ここには確実に時間のずれ・・・タイムラグがある。だから、駆け込みたくなる。お寺だって、扉が開いてれば駆け込みたくなる。

 また、駆け込んでくる人の時間に対する感覚もあるだろう。「まだ、3秒ある」

と思っても、実際ストップウオッチで計ると、1秒しかないのかもしれないし、5秒あるのかもしれない。人間は一人一人、時間に対する感覚が違うのである。人間はたかだか、1日を24に分割する程度しか時間に対する知識を持ち合わせていないからだ。

 しかし、もし、ドアが、「ある決まったとき」に必ず閉まるようにしたらどうだろう。

 つまり、「タイムラグ」を無くすのである。音楽が鳴りやんだら、もしくはベルが鳴りやんだら、その途端、ドアが必ず閉まると決めたら。

 わざわざ、ドアに挟まりに駆け込んでくる人はいるであろうか。そんなアホはうちの劇団員の安永ぐらいなものだ。(奴なら自ら挟まりにくるに違いない)

 こういう方法もある。駅員がカウントダウンするのである。マイクを持ち、颯爽とタキシードでも着せて、そのセレモニーは始まる。音楽も高貴に、ドボルザーク「新世界」あたりでもいい。電車のドアが閉まる前に、ドボルザークである。客だって緊張する。ミスは犯せないと身構えるに違いない。音楽が鳴る。タキシードの駅員がマイクを持つ。ここで、人身事故の情報でも流せばいい。「お客様、本日、中央線中野駅構内に起きまして、1人死亡。本日の死亡者は未だ一人。二人目はあなたかもしれない!ドアが閉まるまで、5秒前、4,3,2,1。ドアが閉まります。死刑執行!!」

 何故こんな簡単なことが出来ないのか!JR!

 実は今日、私の乗っているグリーン車(声を大にして言いたい!グリーン車だ!)に年の頃なら24,5歳の女性が駆け込もうとした。その前で、ドアが閉まった。女性はその照れ隠しに、携帯電話を取り出し、あたかも、

「乗り遅れたわけではないのよ、今、電話がかかってきたから、乗らなかったの。」

という、演技を必死でしていた。

 その辺の演技を見抜けなくて演出家は出来ない。自慢じゃないが、うちの女優の生理日だって当てられる私である。思わず、窓を開け

「あなたの演技は下手です。安永より下手!」

と言ってやりたかったが、グリーン車の窓は開かなかった。

 JRよ!彼女が可哀想ではないか。もしかしたら離婚をした40歳のこの私と、グリーン車の中で、新しい恋が芽生えたかもしれないのである。人の恋路をじゃましやがって。

何とかしろ!JR!

 

5月27日

 衣装合わせをしなければならないのだが、マネージャーから連絡が入らない。昨日、書いたように、携帯電話があるからと安心されている。しかし、なんだか落ち着かない。携帯で結ばれた仕事なんか信じられるか!そんな気がして、ランドローバーに乗り込み、東名高速を走ることにした。

 と、横浜青葉インターチェンジ付近に、奇妙な立て看板を発見。

 「覆面パトカー出動中」

 これは何だ!道路公団が、密告をしてくれている。刑事法に抵触しないのだろうか。

 国家権力はこんなことを許すほど、日和(ひよ)ってしまったのか・・・権力をかさにきた、警察は、こんなことを許していいのだろうか?君らは、国家権力の権化だ。即刻、立て看板を撤去すべし!

 道路公団の担当者を呼びだし、即刻逮捕。一族路頭犯罪者として牢獄に放り込むべきである。

 何故、そんな看板が存在するのだろう。道路公団は、料金を上げ続けているお詫びに、利用者に親切として教えてくれているのであろうか?いやいや、それ程、道路公団の馬鹿共もアマちゃんではない。第一、道路公団が、警察の天下りの巣であることはご承知の通り。ならば、あの立て看板には何の意味が・・・

 覆面パトカーが出るから、みなさん、スピードを落としましょう・・・みなさんは、スピードを落としてと頼んでも落としてくれないけど、覆面パトカーが出ると書いたら、落としてくれるでしょう?

そんなところか・・・

 それならば、こう書いて立て看板にしてください。

「私達は、警察から天下りして来ました。警察とは仲良しです。だから、情報を教えます。この辺に覆面パトカーが出ることがありますけど、怒らないでね。だって、国家予算で、罰金の収益はすでに計算されちゃってるんですから。組み込まれた予算を何とか確保するためには、みなさんに違反をしていただかないと困るんです。でも、ちゃんと、ことわっておきます、この辺によく出ますよ、覆面パトカーが・・・ちゃんと注意したからね。捕まっても怒らないでね。」

 

 まあ、こんなに長い文面の立て看板は読めないか・・・

 

5月26日

 湘南の風は早くも湿り気を含んだものとなってきた。私のようなお昼に起きて、朝方に寝る人間にとっては、今がとても過ごしにくい。寝具をどうすればいいのかわからない。掛け布団は、まだ冬のものなのだが、夏用のそれにするには、まだ早い気がする。かといって、今の布団では、暑くて寝てられない。実際、今日も暑くて起きてしまった。クーラーをつけるほどではないし、全く困った気候である。

 さらに、困ったことに、携帯電話という代物がある。これに起こされると、頗る(すこぶ)機嫌が悪い。携帯電話を持ち初めて、10年が経つ。少し前なら、030で始まる電話番号が誇らしかったのだが、今やみんな090で始まるので、権威も地に落ちた。私の人一倍強い虚栄心が可哀想だ。それでも、私は人に電話番号を教えるときには、「030の・・・」とわざと間違えるすべを知っている。

「違った、090の、3×××・・・」と小さな虚栄心を満たしている。

 その携帯電話が、今私の負担になっている。自分の居場所がすぐに分かるのはとってもまずい。どこまでも追いかけてこられるのが苦痛となっている。朝、起こされるのはもってのほか・・・車の中まで追いかけてこられ、車の中で女の子と・・・なんて出来やしない。

 今、真剣に考えているのは、携帯電話を捨てようかということである。事務所の社長は、「そんなことをしたら、一生仕事を入れないわよ。」と脅しをかけてくる。劇団員からは、「台本を書いてくれって催促が出来なくなるので、困る。」と哀願される。

 大体、劇団員からの電話は愛情がない。「台本のすすみ具合はどうですか?」と、一応、お伺いをたてている形は取っているが、「はよー書かんかい!」という恐ろしい言葉が隠されているのを知っている。嗚呼、本当に携帯電話を捨てちゃおうかな・・・

 私の大好きな女優の篠倉伸子が亡くなって、丁度1年が経った。私の机の上には彼女から貰った下手なイラストの年賀状が飾ってある・・・

「芝居の大好きな相ちゃんへ。芝居の大大大好きなミニーより(彼女の役名でした)」

こう書かれている年賀状と、にらめっこしながら台本を書く作業をしていたのに、何の助けもしてくれなかった・・・きっと天国で私の怠け癖を見破り、見捨てたのかもしれない。

合掌・・・

3月19日

 今日は競馬も勝ったし、昨日の撮影も旨くいったし、嬉しい限り。すこぶる機嫌がいいです。

 さて、最近気になることが、また増えました。花粉症のことです。この時期になると、つらそうな人が沢山いますね。花粉症にならないと現代人ではないような気がしてしまうのは私だけでしょうか?

 だって、花粉症の人って自慢げではありませんか?

「いやー今日の花粉は根性が座っているわ」

とか

「花粉が凄くてね、朝、くしゃみで起きてしまう」

と、一応は被害者のような顔をしてますが、目の奥は「流行に遅れなくって良かった」って感じで、笑ってますもの。

 一時期、バブルの真っ最中、「イヤー忙しくって死にそう」と嘆いていた人と、何処か共通点がありませんか?

 それに、花粉症と言っている人の半分以上は風邪だと思います。絶対、風邪ですって。

「風邪だ」と言ってしまうとみんなから敬遠されるから、「花粉症」を主張している輩が絶対いますって。

 特に、役者連中には多い。「役者が風邪をひくなんて、自己管理が出来ていない」と怒られるのが恐くて、花粉症を装っている人が沢山います。

 一つ質問なのですが・・・海外でこのページを読んでいるあなた・・・

各国の花粉症の状況を、掲示板にでもカキコして下さい。

 

3月18日

 

今日は朝から撮影のため、徹夜で台詞を覚えてます。今、4時20分。そろそろ、出かけなければなりません。

 ロケーションでは、待ち合わせ場所に「新宿スバル前」というのをよく聞きます。新宿にある「スバルビルの前」の事なのですが、ここが、朝になると大混雑。色々な撮影隊が、ロケバスを連ねて、待機しているのです。

 冗談のような話ですが、全く違う撮影隊のバスに乗って、全く違う撮影場所に連れて行かれた人もあるくらいです。(もちろん私ではありません。私じゃないって、本当だよ。だから、俺じゃねーっていってんだろう。)

 さてと、もう、4時30分か。いくかね。

3月10日

 国民の義務である納税をまだ済ませていない。いつもだったら早々と税理士に持っていくのだが、今年はある事情で遅くなってしまった。(ある事情はご存じの通り)今、徹夜で作業をしている。何とか税理士さんに頼み込もうと、税金をごまかす算段中である。

 昔から数字を見ると頭が痛くなる体質だったので、遅々として進まない。気晴らしに、返ってきた我がレンジローバーに乗って、ドライブに出ることにした。車は危ないと言うが、電車だって危ない。中目黒での事故は未だ、その原因が解っていない。乗ったことがある人は解ると思うが、スピードなんて全然出ない現場である。やはり、乗り物は危険が付き物なんだなとか思いつつ車を湘南海岸へ走らせた。

 思った以上に高い波が打ち寄せていた。風も相当強く吹いていた。まるで、人生の指針を失った私を励ますように、気を許すと飛ばされてしまうくらい根性の座った風が吹いていた。

 家への帰り道・・・奇妙な車に出会った。後ろに「子供が乗っています」と書いてある、私を嘲るかのように手を左右に振るポップがついている車だ。何が奇妙かと言えば、その手を振るポップ自体ではなく、其処に書かれている言葉だ。

「子供が乗っています」・・・

 だから、何なんだ!だからどうすればいいのだ。どうして貰いたいのだ!

 全く奇妙としか言いようがない言葉である。それとも、

「わーい、お前は離婚をし、子供が居ないだろう、ざまあみろ。この役者風情が、どけどけ!」

とでも言いたいのであろうか。それとも、

「うちの子は可愛くて頭もいいの。お受験にもちゃんと対応している、ウインドウズ2000並の子供なんざます。お褒め下さいませ。」

と見せびらかせているのであろうか?

 推測するに、

「この車は子供が乗っています。いや、乗っていないこともあるんですが、よく乗るんです。その時は、子供にシートベルトをしてないので、ゆっくり走ることにしております。遅く走ってゴメンね!だから、怒らないでね。みんな、子供の所為だから。

子供って言えば、たいていのことは許してくれるはずでしょ?間違っても、後ろからクラクションなんて鳴らさないでね。パッシングも駄目よ。だって、子供が乗って居るんですもの。今日はたまたま乗っていませんが、遅く走るのが癖になって・・・・」

 こんな感じであろうか。私は、これに、2つ文句を言いたい。まず一つ。

 子供が乗って居るから遅く走るという根拠を述べて貰いたい。子供は車酔いしやすいと言うのなら、

「車酔いしやすい人が乗ってます」

の文字をバイバイするあの手に書けばいい。

 その2。子供が乗っているから、法規を守って運転します、法律を守ることが安全運転です。更に、子供の教育上ゆっくり走っているのです。というのなら、

「この車は安全運転をします」

と、ずーっとバイバイしているあの手に書けば良いではないか。

 兎に角、おかしな文面である。それに、お年寄りだって同じ様な弱者だ。

「この車にはお年寄りが乗ってます」

と言う、バイバイ手は売っているのだろうか。それともあのバイバイ手を作っている業者は、老人は早く死ねとでも思っているのだろうか。

 誰か、

「この車には老人が乗ってます」

のバイバイ手を見かけたら、ご一報下さい。謝礼を差し上げることは出来ませんが、僕がバイバイして上げます。

相原一夫

2月29日

 実家に帰った私は、湘南の風に吹かれている。37年間住んでいたはずの平塚だが、状況が変わると、風の匂いさえ違ってくるらしい。平塚を離れたのはたった、2年間なのにまるで違った町のように思えるのは何故だろうか。

 人生が少しずつ変わろうとしているのかもしれない。占い好きの人なら、なんだかんだと理由を付けるのだろうが、強い風が木々を揺らしているのを見るとなんだか落ち着かない。

 車の窓を割られ、パソコンを盗まれてしまった。その前はAOLからの締め出し。そしてその前は・・・・離婚。

 

 今日は久々に自転者に乗った。とても不思議な気分であった。自動車が僕の足になって、3年。その前はバイクであった。自転者に乗ったのは、どの位前になるのか思い出せない。

 車が修理工場にいき、かつての足であったバイクも東京で盗まれ、今はこの、両親が乗っている自転車しかない。

 2月が決算の会社が多いのであろうか、多くの書類を出さなければならない状況に追い込まれている。何とか午前中(私の場合午前中とは日が沈むまでなのだが)に、書き終え、郵便ポストまでのほんの数百メートルの距離を歩こうか自転車に乗ろうか迷った。歩けば5分。自転車なら2〜3分であろうか。意を決して自転車を選択した。(こうしてパソコンで文字を書いて気づいたのだが、ジテンシャであって、ジデンシャではないことに、今頃気づいた)

 自分が自転車に乗っているのが不思議でならなかった。正確に言えば、自転車に乗れていることが不思議であったのだ。

 自転車に乗れるようになったのは小学1年生の頃だったと思う。何度も転びながら習得した技術が、40になろうという中年の運動神経に記憶されていたのだ。

 考えてみれば、自転車という乗り物は殆ど曲芸に近い。4輪ならまだしも、2輪である。そのまま立っていることさえ出来ない乗り物に、私達は平然と乗っている。いやに不思議な体験だった。思わず、立ち上がって、こぎ出した。サドルからお尻を上げ、自転車のハンドルを左右に大きく振り、ペダルを漕いでみた。俺は曲芸師かと思った。両手ばなしもしてみた。結構平気でカーブも曲がれる。紛れもなく、私は曲芸師だったのだ。私は自分を蔑みすぎていたように思う。素晴らしい才能を持って居るではないか。役者で食えなくなったら、絶対自転車乗りになる。サーカスで大喝采を浴びちゃうのである。誰がなんと言おうと、浴びちゃうのである。(段々、椎名誠の文体に似てきた(笑))

 庭先で、クモマグサの花が、強風に煽られ花びらを一つ散らした。それも、クモマグサの人生なのかもしれない。新たに咲き始めたつぼみが、フッと笑ったような気がした。

相原一夫

 

 

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